山梨県立博物館
厳しい残暑が緩んだと思ったら、急に肌寒くなってきたこの頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか。 (私は慌てて秋・冬ものの衣料をケースから引っ張り出してきております。)
九月末を以って、二ヶ月間続いた仕事に区切りがついたので、気分転換と情報収集を兼て、山梨県立博物館を訪れてきました。 甲斐国 (かいのくに) ということで、武田氏による為政や、鉱山・治水に関連する資料が豊富で、自分の興味のあるテーマを追うだけでもたっぷりと楽しむことができます。 また、山梨が生糸・和紙の産地としても有名であったことなど、これまで知らなかった情報も得ることができ、大変ためになりました。
なかでも私の興味を引いたのは、近代に入ってから山梨県を中心として多くの人々を苦しめた地方病に関する展示です。 現在では、この病気は日本住血吸虫という寄生虫によって引き起こされるものであることが分かっているわけですが、その知見が得られるまでの試行錯誤と、これを撲滅するための官民をあげての取り組みの歴史に触れると、その気の遠くなるような努力の積み重ねに、圧倒されずにはいられません。 とりわけ、感染経路の特定のための、科学者たちがその身を挺して行った各種の実験と考察は、「凄まじい」の一語に尽きるでしょう。
万策尽きた吉岡はついに、死亡した患者を病理解剖して、病変を直接確かめるしかないと決断する。 しかし当時の人々にとって解剖はおろか、手術によって開腹することですら世にも恐ろしいことと思われており、普段は威勢のよい男性でも、死後とはいえ自分の体を解剖されることには極度に脅えたといわれている。 実際に山梨県では明治中期の当時において解剖事例は皆無であった。
( 中略 )吉岡の献身的な治療に信頼を寄せていたなかは、なぜ甲州の民ばかりこのようなむごい病に苦しまなければならないのかと病を恨みつつも、この病気の原因究明に役立ててほしいと、自ら死後の解剖を希望することを家族に告げる。 最初は驚いた家族であったが、なかの切実な気持ちを汲んで同意し吉岡に伝えた。 当時としては生前に患者が自ら解剖を申し出ることはめったにないことであり、あまりのことに涙した吉岡であったが、家族と共に彼女の願いを聞き取り文章にし、1897年 (明治30年) 5月30日付けで県病院 (現: 山梨県立中央病院) 宛に『死体解剖
御願 』を親族の署名とともに提出した。
また、京都帝国大学皮膚科の松浦有志太郎により、片山地方の水田から採取した水に自分の腕を浸すという自らの体を使った決死の感染実験が行われた。 ( 中略 ) 松浦は有病地滞在中、飲食物は全て煮沸したものしか口にせず、皮膚にかぶれが起きるのか慎重に経過を見守ったが、2回に及ぶ自己感染実験では感染は成立しなかった。ところが3度目の自己感染実験で松浦はついに感染してしまう。
そんな中、地域住民によるミヤイリガイの拾い集めが始まった。 「ミヤイリガイをなくせば地方病はなくなる」と聞いた農民が、自発的に行動を始めたのである。 それは、女性や幼い子供たちをも動員し、箸を使って米粒ほどの小さなミヤイリガイを1匹ずつ御椀に集めていくという、気の遠くなるような涙ぐましいものであった。 農民たちへの努力に応えるべく、県により採取量1合に対し50銭が給付され、1合を増すごとに10銭の奨励金が交付された。
山梨県では1925年 (大正14年) に生石灰の散布が決定され、前述したように同年2月10日に『山梨地方病予防撲滅期成会』が組織され発足した。 1924年 (大正13年) から1928年 (昭和3年) にわたる5年間の地方病撲滅対策費用166,379円のうち、約8割に当たる131,943円が寄附金であったことからも、住民の地方病撲滅への願いの強さが分かる。
こうして、甲府盆地を網の目状に流れる水路は大小問わず全てコンクリートで塗り固められた。 コンクリート化に投入された予算は1979年 (昭和54年) の段階で70億円に及び、1985年 (昭和60年) には累計総額100億円を突破する、莫大な費用を注ぎ込んだ事業であった。
なお、撲滅事業が終了した1996年 (平成8年) の時点で、地方病対策のためにコンクリート化された甲府盆地の用水路の総延長は、函館市から那覇市間の直線距離に相当する、2,109キロメートル (2,109,716メートル) に達している。
また、当時全県に配布された『俺 (わし) は地方病博士だ』という冊子は、地方病への取り組みだけでなく、当時の世相を知る上で、大変参考になる資料です。 館内にはこの冊子の複製が置かれており、ここでそのすべての内容に目を通すことができました。 昭和町にある 風土伝承館 杉浦醫院 で復刻版が購入できるとのことなので、こちらにもぜひ近いうちに足を運んでみたいと思います。
杉浦健造博士をはじめとする先駆者の研究で、明治37年に寄生虫・日本住血吸虫が確認され、大正2年の感染経路や中間宿主の発見で、地方病の原因や予防法が明らかになると行政と住民が一体になって、地方病に罹らない為の普及、啓蒙活動と終息に向けての多角的な施策が実施されました。
その普及、啓蒙活動の象徴的な一つに、山梨県医師会付属・山梨地方病研究部が大正6年5月に発行した「俺は地方病博士だ」の冊子があります。 子どもを対象に作られた啓蒙冊子なので、興味をひくよう絵本にし、川遊びに興じている凸坊(でこぼう)と茶目(ちゃめ)吉(きち)を「洋服を着てひげをはやしたおじさんが来て、いきなり襟をつかんで川から引き上げました」と物語り風に始まるなど、随所に工夫が見られます。 富国強兵の時代を反映して、博士は、「地方病が広がると、国が貧乏になって弱くなり、ドイツどころか支那と戦争も出来ない様になる。地方病は貧国弱兵病だ」と少年に説くなど、説教内容も面白く一気に読めます。 何より、むき出しの上から目線で「俺(わし)は地方病博士だ」というタイトルも「末は博士か大臣か」の身を立て、名を上げが共通価値観だったこの時代を象徴しています。
この「地方病」と同じように、当時「謎の病気」とされ、その原因究明と治療法の確立をめぐって壮大なドラマが繰り広げられたものに脚気 (かっけ) があります。 この話は、作家・吉村昭によって『白い航跡』というタイトルで作品化されており、こちらも興味深く・そして面白く読みました。 ビタミンの存在が認識されたのって、それほど昔のことじゃないんですね。
どうも私は、こうした「人間が知恵を絞って自然に立ち向かう」系の話に弱いようです。 ダムとか水力発電所が好きなのも、たぶんそのせいだろう、と自己分析していたり。脚気論争については、下記のブログ記事に分かりやすくまとめられているので、興味のある方はこちらを読んでみるのもよいかもしれません。
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/ ─ ─\ どうやら食が関係してそうだお。
/ (●) (●) \ 気候が原因なら欧米人も脚気になるはずだお。
| (__人__) | いいもの食べる将校には脚気がないお。
/ ∩ノ ⊃ / 航海中の水兵には脚気が多いけど、
( \ / _ノ | | 外国の港に停泊中は発生しないお。
.\ “ /__| | きっと洋食(肉・パン)が脚気を防ぐお。
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