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「客観」の落とし穴

社会の中で他者と関わるとき、とりわけ不特定多数を相手とする場面では、自分の考え方・感じ方、即ち "主観" を離れて、より広く理解・共有されることが可能な "客観" をベースとして行動することが重要である、というのはよく言われるところ。 実際、モノゴトの捉え方や理解の仕方は人によって異なるため、「私はこう思う」と言って主観をぶつけあうだけでは、相手の考えを理解したり、落とし所を見つけることは難しいでしょう。 そのため、そうした場面では、互いに了解しうる素朴 (プリミティブ) な事実の確認や、検証可能な尺度を用いた定量的な論述によって議論を進める必要が出てくるわけです。

ところで、この客観というものはそれ単独で超然と存在するものではありません。 客観というのは、複数の主観が共に認めうる事実・理論と、そこからの推論によって導かれるものによって構成されるもの。 従って、それを認める主観群と基本ルールを共有しない別の主観がやってくると、その客観はまた一つの主観に過ぎないという見方を否定することはできなくなります。

と、ここで話は大きく変わってキュウリについて。 世の中には「キュウリが嫌い」という人が少なからず存在するようです。 まぁ、どんな食材にも独特の風味や食感があるので、キュウリが苦手な人がいても不思議はありません。 しかし、私にとって意外なのは、彼らの何人かは以下のようなことを主張すること。

あんな栄養のない野菜なんかを喜んで (買ってまで) 食べる人の気が知れない。

確かに、Wikipedia のキュウリ#栄養の項目にも 「キュウリは全体の90%以上が水分で、栄養素はビタミンC, カロチン, カリウムなどが含まれるが含有量は非常に低い。 ギネスブックには、世界一カロリーの低い果実として掲載された。」 という記述があり、栄養価が低いことは間違いない様子。 けれども、私が抱いた疑問のポイントはそこではありません。 「あなたがキュウリを嫌いなのは味や匂いが原因であって、栄養的に貧弱だからではないでしょう?」と。 寒天大好きな私の立場はどうなっちゃうんですか。

どう考えてみても、彼らがキュウリを嫌う理由は、その栄養ではなく、味や匂いにあるのは明らかです。 けれども、そうした味や香りに対する感覚はあくまでも主観的なものにすぎません。 「どうしてこの味 (匂い) が嫌いなのですか?」と問われたとしても、「とにかくイヤなんだ」としか言いようがないのではないでしょうか。 論理的に説明することは不可能である上、どれほど理屈を尽くしたところでキュウリを嫌いでなくなるとは到底思えません。 これは主観に属する類の問題であり、主観に基づいて述べるのが正しく、客観的に議論しようと考えるのがそもそもの間違いなのです。

しかし、私たちの社会には主観に基づいて行動することイコール我侭・身勝手と考える傾向があることもまた事実。 本人にとってはキュウリを食べることが切実な苦痛であるにも関わらず、周囲から「我慢しろ」だとか「大人になれ」などと言われてしまったり。 また、実際にそう言われることはなくとも、「内心では身勝手な奴だと思っているのだろう」と考えたり、あるいは自分で自身の嗜好を我侭と捉えて苦しむこともあるようです。 そうした葛藤を退ける手段のひとつとして出てくるのが、「私が食べないのは、主観的なワガママではなくて、ちゃんした (客観的な) 理由があるんだ」という主張の組み立て。 栄養価云々というのは、それに使えそうなキュウリの欠点 (と考えられるもの) に過ぎず、それ自体にはたいした意味はありません。

よいものはよい?わるいものはわるい?

これと反対の例として、一昨年イギリスで発表されちょっとした話題になったあるニュースがあげられるでしょう。 以下に引用したのはその解説記事です。

英国食品基準庁 (FSA) は2009年7月29日、オーガニック (有機認証) 食品の栄養価と健康影響についての科学的根拠を吟味したレビューを発表しました。 通常農法による食品と比較して、オーガニック食品の栄養学的優位性は認められず、健康影響についても特に良い影響があるとは言えない、というのが結論でした。

この発表は英国を中心に英語圏のメディアで大きく取り上げられ、オーガニック推進団体を中心にオーガニック食品の方が良いと信じていた多くの一般市民を巻き込んだ論争をもたらしました。

「残留農薬の危険性」を宣伝することはすなわち科学的根拠のない宣伝であり、広告規制局 (ASA) に訴えられれば違法であることが認定されて、法的制裁を受ける可能性があるのです。 実際に通常農法で生産された農産物であろうとオーガニック製品であろうと、安全性に問題があれば流通できないというのが世界的に当然のことですから、通常農法で生産されたものを根拠無く危険だと主張するのは規則以前にまっとうな行為ではないでしょう。

そこでオーガニック食品の優位性を宣伝するために、栄養価が高いということを持ち出してきていたのです。 その根拠とされた研究内容があまり科学的に信頼性の高いものではないということが今回のFSAの発表で証明されてしまったので反発しているわけです。

オーガニック・フードの哲学や方法についての評価に人によって様々ですが、よほど深刻な社会問題でも引き起こさない限りにおいては、嗜好・ライフスタイルのひとつとして認められるべきものであり、商品としての流通にも制約が課せられるべきではないと考えています。 しかしながら、市場を拡大したい生産者にとっても、健康志向の消費者にとっても、「自然」「環境に優しい」といった主観的なメリットだけではもはや不十分な状況となっていました。 生産者としては可能な限り多くのメリットを提示して販売を促進したい。 消費者としては拘って選んだ食品について健康面におけるアドバンテージを求める。 こうした要求に対して「栄養価が高い」ということは客観的 (定量的に示しうる) メリットとして評価され、好意的に受け入れられたであろうことは想像に難くありません。

自分が主観的に「良い (好き)」と評価したものは、客観的にも優れたものであって欲しい。 反対に、自分が主観的に「悪い (嫌い)」と評価したものは、客観的にも劣ったものであるということにしたい。 これは論理的には明らかに誤りですが、人間の感情としてごく自然なものでもあります。

しかし、水伝の表面上の話というのは「よい言葉を使おう」「悪い言葉は使わないようにしよう」というメッセージです。 ちょっと立ち止まってみると、わざわざ水に教えてもらうまでもなく、誰でもその方がいいと知っていることでしかありません。 僕のようなおせっかいな人たちは、それも指摘してしまいます。

それでも、すばらしいと感じた感情は残ります。 結果として色々な言い訳をつけてしまうという状況に陥ります。 道徳としては成り立つとか、科学の方が間違っているとか。 そうでなければ感情の帰属先がないからというわけです。

同時に、こうした主張は「自信のなさ」の裏返しであるとも考えられます。 自分の好き/嫌いといった感情を否定されるのではないか (否定されたくない) という恐れが、本来主観であるはずの評価に「客観的」な根拠付けを行う動機となっているのではないでしょうか。

客観性とルール

先に述べたように、客観とは幾つもの主観を積み重ねることによって形作られるものであり、また、それ以外の方法で獲得することのできないものです。 そのため、客観的なものの見方・考え方というものを身に付けようとするならば、それに先立って主観についての理解をしっかりと確立しておく必要があります。 主観を半ば意図的に無視することで客観的であろうとする (あるいは、自分が客観的であることアピールする) 人は少なくありませんが、その主張にはどこか歪んだ部分が出てくるもの。 少なくとも、現実に起きている問題を解決しうるものとはならないでしょう。

例えば、ある人物または団体のある行為に対する批判から議論が起こったとします。 そんなときによく現れるのが、議論の対象となっているその行為が現行法に照らして合法であるかどうかという観点だけから結論を導き出そうとする人。 「違法なのだから有無を言わさず処罰すべき」とか「違法ではないのだから批判すべきでない」といった主張をする手合いがそれです。 本人は自分個人の意見 (主観) を排して、誰もが従うべき「法律」というルールに基づいた評価を行うことで、客観的な立ち位置を確保したつもりになっているようですが、法律がどのように成立するものなのかを考えれば、そのおかしさに気が付くはずです。

法律とは、社会というシステムを維持していく上で脅威・障害となる行為を定め、それを規制するために存在するものですが、何が社会にとっての脅威・障害であるかは、その背景となる文化・技術に応じて絶えず変化します。 従って、時代の移り変わりによって新たな問題が出現すれば、それを解決するための新しい法律が作られるでしょう。 また、法律の不備を突いて規制を回避しようとする者が現れれば、その条文を改正をするなどの対応が取られます。 法律の機能を維持するためには、その内容が妥当であるかどうかを議論し、必要に応じて修正を施すという、いわば「メンテナンス」作業が欠かせません。

法律の内容についての検討は、「社会はどう在るべきか」という問いに直結します。 その問いに対する答は、社会を構成する者たちの議論によって得るべきもの。 それを法律に拠って導こうとするのは、法律というものの意義を根本から見失った行為だと言えるでしょう。

たまに、法律は機械的に「犯罪である」か「無罪である」かを判別できるようなものであると勘違いしている人がいる。 そんなことができるわけないし、もしそうなら裁判官などいらない。 犯罪であるかどうかを機械的に判別することはできないし、誰が見ても誤読できないような法律文を書くこともできないからこそ、裁判官が存在するのである。

法律の第何条に違反しているから悪いことであり罪になる、というのは順序が逆だ。 悪いことをしたから罪になるのであり、その悪いこととは何かを書いたものが法律である。 「法律に書いてなければどんなに悪いことでもしていいのか?」という議論があるが、我々の作った法律というのはそんなにヤワじゃない。 悪いことはすべて法律で網羅されている。 ただし、法律には解釈の余地がある。解釈の余地があるからこそすべてを網羅できるのである。

Winnyのような法律議論で、法律文の一字一句を当てはめて罪になる/ならないという議論がよく起きる。 こんな議論は意味がない。 まず議論すべきは「それは悪いことかどうか」であり、その次に「悪いとすればなぜ悪いのか、どこが悪いのか」を議論すべきである。

主観なくして客観は存在し得ない。 何を主張するにしても、まずはこの基本的な原則を踏まえておくことが重要です。

武雄市図書館問題再び

話はさらに変わって、以前の記事で言及した「武雄市図書館問題」について。 その記事の中で、私は次のような指摘を行いました。

高木氏が「個人情報保護法の規定には欠陥がある。これに依拠していてはプライバシーを守ることはできない。」と述べているのに対し、樋渡市長は「うちは個人情報保護法に則ってやっているんだ。違法じゃないんだからガタガタ言うな。」と言っているわけです。 指摘されている「勘違い」を繰り返しているだけであり、まったく反論になっていないことがお分かり頂けるでしょう。

それから早くも三ヶ月。 ネット上ではその後も色々な角度からの指摘や考察が為されましたが、市長とその取り巻きたちはこれらを「揚げ足取り」「改革の足を引っ張っている」として、その内容に向き合うことを拒み続けています。 樋渡市長は、指摘の内容には全く答えることなく、以前と同様に「法律に従っているのだから問題ない」との見解を繰り返しています。 そして、止まらない恫喝と個人攻撃。

あの高木浩光先生が、不思議なことに、「武雄市個人情報保護条例はやはり欠陥だった」と、ブログを書いておられる。 その中に、「そらみろ、条例でちゃんと明文化しないからこういうことになる。」と言われても、どういう論理展開であるか不明だが、以前に指摘したとおり、括弧書きがない場合も、括弧書きの対象である「他の情報と照合することができ、それにより特定の個人を識別することができることとなるものが機械的に除かれるわけではなく、「民間向けの「個人情報」定義よりもさらに狭い」わけではない。 これは以前、書きました。良かったらご覧ください。 高木さん、あなた、完全に間違っています。

前にも書いたけど、この御仁が産総研という広い意味での国の機関で働いてなければ、僕は文句は言わない。 国の禄を食んでおいて、言いがかりはつけるな! しかも、悪意のあるTwitterでのリツイートもしないでほしいね。 姑息だ。 ブログを自宅で書いているから、というのは何の言い訳にもならない。

もちろん、真っ当な批判は大いに結構だし、現に、こちらがありがたいと思える指摘も少なからずあります。 これは図書館問題に限らずね。

高木さん、以前は公開討論会やろう!って言ってたけど、同じ土俵で語りたくも無い。 もし、同じ批判を繰り返すのであれば、せめて、産総研を辞めてからにしようね。 それが社会のルールです。

相も変わらず、地方自治体の長とは思えぬ下衆なもの言いで、これをパブリックな空間で開示できる神経がこれまたスゴいと思うわけですが、それはそれとして、今回私が着目したかったのは、前節で述べた、法律という「客観的」な基準に拠る発言。 これは冒頭で示したキュウリの話と似ていますが、本来主観で語るべきでない話題に主観を持ち込み、それを誤魔化すために法律を持ち出して「客観」を装っている例だと言えるでしょう。 自らが推進する事業の是非について、法律を絶対的な評価基準として用い、それに沿わぬ意見を「言いがかり」「いちゃもん」として退けるその姿には、己の過ちどころか、その可能性すら認めることのできない自信のなさと、それを糊塗しようとする卑俗さが垣間見えます。

またまた武雄市の個人情報後条例にいちゃもんつけている高木浩光先生に、反論しています。

ほんと、この人はたちが悪い。 産業総合研究所という広い意味での国の機関で働いているにもかかわらず、多くは足を引っ張ってばかり。 僕はこの手の「上から目線」の連中は許せない。徹底的に戦います。

でないと、前向きに頑張ろうと思う人たちが萎縮してしまう。 この御仁のせいで、僕が知っている限りでも、多くの人たちの意欲が萎えています。

趣旨に賛同される方は、ぜひ、シェアをお願いします。頼みます!


[福田 博行] 個人情報、コジンジョウホウと騒いでる人間は、仙人になって山の頂上で住めば良い!。 人間とは人と人の間と書く。 お互いに認めあってはじめて人生が楽しくなる。 悪用された時、はじめて救済される法整備が必用です。 保護法案を見直すべきです。


[Ryou Max Kihara] 己に自信を持つことが何よりの力です 蓄えた知識の裏付​けがあるからこそ持てる力 この力を権力等と呼ぶアホン​ダラがいる そもそもの出発点が間違ってるからすべてが狂う 持てる知識と解釈だけで戦えばいいんだよ、堂々と 市長は受けて立つと言われてるんだから ※アホの言う事や愚見はスルーされるのが当然 スルーされたら己の非を恥じてやり直せ 真っ当なチャレンジやろ、己磨きの 無駄な時間を使わせるな


[白川 晶也] この業界って、出過ぎたことを叩こうとする人が多過ぎる気がします。 なぜ、その知識をプラスの方向に使えないのか。 住民の益より自分の自己満足? もっとプラスのスパイラルを起こして欲しいですよね^^


[三浦 ユキヒロ] 高木浩光君も腐れた「どじょう」と同じ土壌なのでしょうね、エライそうな事を言っても肩書と勤務先で人間は本当​の付き合いは出来ていない事を知るべきです! 火星にでも飛んでけの類です


[世も 末澤] そもそも、全ての想定を明文化しようとすることに無理がある。 そんなこと出来るはずがない! 善意前向きな挑戦をこんな机上の空論者に止められたら、日本の発展は望めない(怒)


[中原 賢智] この人。人の批判だけで飯食いよんさーとでしよーうねd​( ̄  ̄) 人の批判ばっかいしてなんのたのしかとでしょうね??(​笑)


[外山 宗博] クレーマーの心理て、「さびしい、孤独」。 討論というより、どうして彼 (高木氏) がこんなに突っ込んでくるのかその「心」を見て助けてあげるのが人としての道理かも。 私は単純に彼はかわいそうな人だと思います。 家族や子供さんに胸張ってお父さんはね。。。。て話せるのかな。


[高久 勝] 痛快なコメントですね。 私もこの手のご仁に出くわすことがあります。 こんな人間ほど、酒好きで懇親会好きですよね。 やれやれ。

そしてまた、コメント欄の支援者の「お上品さ」に開いた口が塞がりません。 Facebook というメディアで実名 (らしきもの) を晒して、こうした発言ができるというのは、私の理解の範疇を超えています。 口調の問題は措いたとしても、彼らは「前向きであること」「新しいこと」「面白いこと」を、絶対的な是非の基準として市長の言動を批判する者への誹謗を絶賛続行中。 これも、「前向き」という評価軸が彼らの中で「客観的」かつ「議論の余地なく正しい」ものであるからこそできることなのでしょう。 更に驚くべきは、こうした主張を展開する人々の素性です。

どんな人が「いいね!」を押しているのか見てみると、全国各地の自治体職員や地方議会議員の方々、会社社長の方々がけっこう多いようだ。

人の上に立ってこれを導かんとするものには、それに見合うだけの高い見識が求められる筈なのですが、そうした期待は今や詮無きもの。 行政ですらこの有様なのですから、ビジネスが腐敗するのも無理のない話であろうと思います。

新クロサギ (13)

この「合法だからいいのだ」という発想は、現在の日本で横行している思想で、ネットベンチャーたちの悪質な収奪ビジネスも、結局のところ「合法」であること「儲かる」ことにしか意義がない。 情けないのは、こうした収奪ビジネスを、財界の人間が「すばらしいビジネスモデルだ」と語ってしまうことだろう。

経済新聞や経済専門誌が安直に取り上げることが影響していることも見逃せない。

『新クロサギ』(13) / 著: 黒丸 原案: 夏原武

悪いことを企んでいる人間は、監視の目が厳しくなれば当然萎縮するわけで、それは結構なことであるはず。 法律や良識の隙を突いて利益を上げるのが「イノベーション」であるならば、そんなものはさっさと潰してしまうべきでしょう。

まとめのような

気が付けば、最初の話から随分と離れてしまいましたが、私としては一貫したテーマに沿って話してきたつもりです。 それは、「主観」の存在を意識しない、あるいはこれを隠す目的で用いられる「客観」は、本当の意味でのそれと異なるものであるだけでなく、他人どころか自分自身をも欺き、議論を誤った方向に導く、有害極まりないものであるということ。 逆に言えば、主張の裏にある本当の理由を隠そうとする者にとっては、自説にゆるぎない根拠があるように見せかけることのできるこの「客観」の装いはこの上なく便利なものであることでしょう。

自信のない人は「客観的」という言葉が好きだ。 客観性とはつまり、根拠を自分以外のところに置くことである。 客観的に正しい事実ならば、自分が信じられなくても言うことができる。 こういう人は、反対意見に対して「絶対にそうだというのか」とか「証拠を挙げろ」とか言うからすぐわかる。 もう一つ、やたら他人の受け売りをするタイプの人もいる。 歴史上の偉い人がこう言っていたとか、ネットで有名な誰々がこう言っていたとか。

こういう人々の共通点は、自分の言ったことを自分の言葉で説明できないことである。 彼らはそもそも自分の言葉を持たない。 彼らの言葉は「事実」あるいは「誰かが言ったこと」だけで構成されている。 この2つだけを言う限り、どう否定されても自分が否定されたと思うことはない。 だから安心できるのだ。 自分の言葉を持つと、それが否定された時にパニックになってしまう。

主観でものを言うには勇気が必要ですが、「語る」という行為は、そもそもが主観でしか為しえないものであり、本来的に勇気を必要とする行為なのです。 その事実を踏まえることなく自ら「客観」を任じて語る人は、傷付くことを恐れているだけの臆病者にすぎません。 また、その言葉に感銘を受けて称揚する人は、自ら考えることを放棄した怠け者だと言えます。

「自分は客観的である」と言う前に、まず自分以外の何かが定めた「客観」ではなく、自らの言葉で主観の根拠を述べる能力と自信を身につけることを考るべきではないでしょうか。 そして、人が本当の意味で客観に近付くことがあるとすれば、そうしたその努力の積み重ねの結果としてであり、それ以外の道はないだろう、と私は考えています。

成田 (キュウリの話は撒き餌)
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