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創造力の正体

創造力の源は「直感」や「閃き」と呼ばれるものであると一般的には考えられているようですが、実際のところ、直感によってもたらされる着想の 99% 以上は役に立たないゴミ案です。 むしろ、これら膨大な量のゴミの中から 1% 未満の宝 (有益な何か) をより分ける作業こそが、創造という行為の本質ではないでしょうか。

この「より分け」はつまるところ、自分への駄目出しに他なりません。 自分が出したアイディアをひとつひとつ検証し、短所・欠点を探しては捨てていくわけです。 ゴミと宝の比率を考えると、「宝を探す」というよりは「ひたすらゴミを捨てる」という行為に近い上に、「ゴミを全部捨てたら何も残らなかった (全部ゴミだった)」という結論に達してしまうことも少なくはありません。 かくのごとく、創造というものは「閃き」よりもコツコツと「考える」ことによってなされる非常に地味な行為なのです。

ちなみに、「ゴミ案 (宝の候補) すら出てこない」という状態は、基本的な知識・理解の不足によるものであり、「創造力」云々以前の段階です。

「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。 学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」と言う。 「じゃあ、悪い案を幾つか見せなさい」と言うと、きょとんとした顔で、「いえ、悪い案も思いついていません」と言う。 「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。 こういうのは、僕の場合「考えた」とはいわないのである。

沢山の具体案を考えることは、無駄なようでけっして無駄ではない。 採用されなかった案が、その人の将来の持ち駒になるからだ。

「クリエイティブな仕事」というのは、その言葉が持つイメージとは対照的に、とても地味で陰気で気の滅入る作業。 それでもなお、新しい何かへの期待で己を鼓舞し、ゴミの山を築き、そこへ突撃していける者だけが、クリエータたり得るのです。

Narita (「クリエイティブ」という語を名詞として使う文化に疑問を抱く)
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