flint>flint blog>2021年> 1月> 3日>文理の境界

文理の境界

明けましておめでとうございます。 この年末年始は、新型コロナウイルス感染拡大の影響を勘案して宮城県への帰省を控え、甲府市で過ごしております。 それにより、こちらへ移り住んでから9年目にして初めて元日の富士山を拝むことができました。

さて、その新型コロナウイルスは昨年の初めより世界中で猛威を振るっており、1年以上が経過した今もなお終息の気配すら見えてきていないというのは皆様ご存知の通り。 その原因もまた様々なところに求められてはいますが、その中でもとりわけ大きな要因のひとつが「多くの人々が "移動", "密集", "対面での会話" を充分に抑制しなかった」ことにあるのは間違いのないところでしょう。 個人的には政府および自治体のこれまでの取り組みおよび示されている今後の展望は無為無策の誹りを免れ得ないものだと考えていますが、その一方、他の先進国の状況についての報道を見る限り「日本はまだマシな部類である」というのも事実ではあるようで、この世界的な災害の背後には特定の国の事情に因らない、より普遍的なメカニズムがあるように感じられています。

生命, 健康, 財産が脅かされているにも関わらず、人々が自らの相互接触の抑制に消極的である理由について、心理学的な観点からは「正常性バイアス」や「認知的不協和」といった要因が指摘されています:

正常性バイアス (Normalcy bias) とは、認知バイアスの一種。 社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語で、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。

自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となる。

認知的不協和 (cognitive dissonance) とは、人が自身の認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。 アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。 人はこれを解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。

いずれも妥当な分析でありますが、人々の言動を観察するうちに、これに加えてまた別の種類の認知の歪みが感染症対策への消極性の一因になっているのではないか、と考えるようになりました。 客観的な裏付けがあるわけでもなく、強く断言・主張できる類の理論ではないのですが、自分の業種とも関連した話題でもあるため、本エントリで述べてみることにした次第です。

「決め事」の世界

ヨシ!

「人間」という言葉が示す通り、私たちは常に「人と人の間」で生きており、そこには様々な種類の「決め事」が存在しています。

人の住んでいる世界。世間。にんげん。

我々一般人が最も強く意識する「決め事」といえば法律が思い浮かぶかもしれませんが、その他にも、就業規則職業倫理風習、さらには仲間・身内の間だけで共有される暗黙のルールなども、私たちの行動を規定・規制するもの。 そうした「決め事」のもとでは、原理的には可能であっても、それを口にしたり、行動に移すことが許されていない事柄が多々あります。

極端な例を挙げれば、人を殺すことは物理的にそれほど困難な行為ではありません (それ故にいつもどこかでは行われている) が、日本を含め、地球上の殆どすべての地域・国家では、その実施は禁止あるいは規制されています。 卑近な例でいえば、よほど親しい間柄でもない限り、他人の容姿や服装について表立って否定的な評価をすることは、まず間違いなく人間関係を円滑に維持する上での障害になるでしょう。 (肯定的であっても問題になるケースも多々ありますが。) その他、政治や宗教、場合によってはプロ野球エディタについて忌憚なく語ることは避けるべき、というのもコミュニティの平穏に保つための知恵として広く知られているところ。

現状において規定されている「決め事」というのは、(それが正当であるかどうかは別として) 集団の利害を調整し、構成員間での軋轢や紛争を抑止する機能を果たしてきたもの。 時折、「可能だからやる」「事実を言う」「思ったことを素直に口にする」ことは悪いことではないとして、これを破ろうとする人物が現れますが、その試みが功を奏して「決め事」が変化したり破棄されたりすることは稀で、大抵の場合は周囲の人々の抵抗により圧殺されることになります。 それが法律に違反することであれば警察による逮捕、そして裁判による科料または実刑が、より狭いコミュニティに固有の規範に対する逸脱であれば、他の構成員からの非難, 軽蔑, 嘲笑あるいは関係性の解消といったペナルティが課されることに。 その是非については多々論争のあるところですが、構成員に「決め事」の順守を強いる有形無形の圧力の存在は、コミュニティの維持存続に不可欠なものであることは否定できません。

「決め事」の外の世界

迫り来る肉食獣

私たちは生活の中で、何層にも重なった「決め事」の世界 (一般には社会と呼ばれる) から出ることは殆どありません。 そのために忘れがちではありますが、あらゆるコミュニティが、その「決め事」に従わないものを排除あるいは抑圧することで成立しているということは、取りも直さず、その外側あるいは抑圧の下には、本質的に「決め事」に従わないものたちが跋扈する世界があることを意味しています。

その代表的なものといえば、俗に「自然」と呼ばれるもの、すなわちヒトを除く生物や、地形気象などの無生物でしょう。 現在世界中で猖獗をきわめている新型コロナウイルスも無論これに含まれます。 人間の「決め事」はこれら「自然」を相手取って闘う上では、直接の役に立つことはありません。

例えば、森の中でクマに襲われたとき、刑法199条は私の生存率を些かも高めることはないでしょう。 この場合、己の生命を守り得るのは、クマの生態に関する知識、判断力を保つ冷静さ、逃げ足の速さ、長距離を走る体力、相手を威圧ないし撃退するに足る武器および戦闘力といった、現実的な力ただそれのみ。

相手がクマではなくウイルス、守る対象が自分個人の生命ではなく社会の機能である場合にも、基本的には同じことが言えます。 必用なのはウイルスの生態に関する知識と、統計に基づく感染推移の予測、そして、適切なリソースの配分と構成員の行動の統率を確実に遂行させるための強制力になるでしょう。 人間の「決め事」は、この強制力をどう確保するかという段階に差し掛かって初めて、ある程度の役割を果たしうる程度のもの。 いくら上手く「決め事」を作ったとしても、それを守らない個人・集団への対処は不可欠であり、結局のところ警察などの現実的な力がなければその機能を発揮・維持することはできません。

このように述べてみると、あまりにも当たり前なことで、「この程度のことを心得ていない社会人なんて存在するのか」とも思えてくるわけですが、自然が人間の「決め事」を守ることを確信あるいは期待しているとしか考えられない人間の行動の例は枚挙に暇がありません。

たとえば西暦666年、プロイセン (ドイツ北部) の聖マグヌスは聖コロンバと共同で、飛蝗やその他の害虫を「破門」した。 この破門という措置は、神の庇護を失うことになるのだから、生きとし生けるものにとっては苛酷な処罰であった。 また875年、ドイツのライン川流域に飛蝗が大発生したとき、聖職者たちは隊を組んで現地におもむき、神霊を安置して害虫の鎮圧を祈願した、という記録がある。

ヨーロッパでは11世紀ごろから自然の征服が始まり、それに付随して動物裁判も興った。 これにも聖職者が主役を演じている。 この動物裁判は1120年、フランスのラン市で司教がブドウの毛虫と、野ネズミを破門したときのものが最初である。
それ以来、作物を荒らす、群れて不快である、鳴き声がうるさい、気味がわるいなど、人間本位の理由により多くの動物が裁判にかけられ、破門などを宣告されるようになった。 その種類は、昆虫ではバッタ、ゾウムシ、コガネムシ、ハチ、アリ、チョウ、アブ、ハエ、青虫や毛虫など、その他の動物では、イルカ、ネズミ、モグラ、スズメ、ヘビ、ナメクジ、ミミズやヒルなど広範囲にわたる。

これを「宗教という迷信に支配されていた中世のヨーロッパだからこそ為された馬鹿げた行いだ」と片付けてしまうのは早計。 暗黒の時代が遠く過ぎ去った1986年に起きたチャレンジャー号爆発事故の調査委員として活動した物理学者リチャード・ファインマンは、この事故の原因について次のように記しています:

困ります、ファインマンさん

会が終わったときにはもう何の疑いもなかった。 ここでもシールの場合とまったく同じことが起こっていたのだ。 下の方では現場の技師たちが声を限りに「助けてくれ!」「これは一大事だ!」と叫んでいるというのに、上の方ではお偉方の管理職どもが、安全性確保の基準をどんどん甘くしているのだ。 そして設計時に予期しなかった誤りが出てきても、その原因の究明もせず、いい加減に片づける、というようなことが起こっていたのだ。 (p268)


一方下の方では技師たちが「とんでもない! そんなに何回も飛べるわけがありません。もしそんなにたびたび飛ばすことになれば、これこれこういう結果になります」と声を枯らして叫んでいるのだ。

しかし議会にその計画を持ちこんで承認してもらおうとしている連中は、そんなことは聞きたくないのである。 それを耳に入れてさえいなければ、議会で嘘を言う必要はなく、一応「正直」でいられようというものだ。 だからむしろ聞かない方がよいということになるわけだ! そうこうしているうちに情勢が変わり始める。 下の方からたとえば「シールに困った問題が起きています。シャトルを飛ばす前にぜひとも直す必要があります」などというような耳ざわりな情報が聞こえてくると、幹部や中くらいの地位にあるマネジャーどもが「とんでもない、シールの問題を今言われると、シャトル飛行をいったん中止しなくちゃならんじゃないか」とか、「だめだだめだ、どんどん飛ばし続けなくちゃ、天下のNASAともあろうものが、かっこうがつかないぞ」とか「そんなことは聞きたくないね。言わないでくれ」とか言って抑えてしまう。 (p313)

ファインマンは、これまた政治的な事情によって報告書の本文から追い出された付録Fの記述を次の言葉で結んでいます:

For a successful technology, reality must take precedence over public relations, for nature cannot be fooled.

技術が成功するためには、体面よりも現実が優先されなければならない、何故なら自然は騙しおおせないからだ。

「体面」というと、特定の個人あるいは組織の利益や名誉への執着を意味するようにも聞こえますが、原文での表現は "public relations" であり、これが指すのはまさしく人間の「決め事」。

  • PBを黒字化する」「オリンピックを開催する」「経済を回す」ことを優先し、医療現場の疲弊・崩壊も顧みず、感染拡大防止のための積極的な政策・方針を打ち出さずにいる政府
  • 「慣例だから」とリモートワーク化を検討すらせず、従業員に出勤, 出張, 対面での打ち合わせを強いた上、忘年会を例年と変わりなく実施する企業
  • 「伝統だから」「子供たちが望んでいる」と、不十分あるいはまったく効果のない "対策" で内外のコンクールを実施し、生徒を感染リスクに晒し続ける学校
  • 費用補助がある」と知人友人と旅行し、「家族に会いたい」と長距離を帰省し、「政治家も飲み歩いているのだし」と繁華街に繰り出す民衆

ウイルス感染が拡大しているという「現実」を無視して「体面」に拘泥し、"失敗" を続けている私たちは、今こそこの言葉を胸に刻み、自らに問うべきです。 「その理屈は、人間の『決め事』の外の存在であるウイルスに通用するものなのか?」と。

セキュリティの前線

お前を見ている

前節では「決め事」に従わないものの代表格として「自然」を取り上げましたが、ヒトの中にも、「アウトロー (outlaw)」と呼ばれる読んで字の如く「決め事」の世界の外側に棲む者たちが存在します。 「決め事」の世界の内側に暮らす私たちにとって、法律を始めとする社会のルールを守らず、それについて課されるペナルティを恐れない、あるいはそのリスクを折り込んだ上で行動する彼らは大きな脅威となるもの。 泥棒強盗, 詐欺師, 放火魔, 通り魔, ストーカー, etc. と、その種類は多岐にわたります。

私のようなソフトウェア技術者にとっては、俗にクラッカあるいはブラックハット・ハッカと呼ばれる、コンピュータ犯罪を行う一種のアウトローは最も警戒すべき相手。 絶え間なく報道される、不正アクセスによるサービス停止や個人情報流出などの被害は、IT事業者にとってはビジネスにおける最大の懸案事項であるといえるでしょう。 この手の事故を未然に防ぐため、ソフトウェア技術者は様々な不正アクセス対策 (たとえば、クライアントから送信されてくるデータの妥当性を期待せず予想外の (悪意のある) リクエストがなされることを前提として、それらに適切な対処がなされるような設計・実装を行うなど) を講じています。

しかしながら、システムの複雑化, 技術力・注意力の欠如、あるいは予算・工期の不足といった要因により、完全にセキュアなネットワークサービスを作ることは事実上不可能であるというのが、この業界において広く共有されている認識。 従って、開発現場におけるセキュリティにもまして、事故 (インシデント) が起きた後の運営対応、すなわち危機管理が重要なポイントとなるわけですが、昨今の報道からも察せられるように、これも健全に機能しているとは言い難いのが実情です。 個別の事案についての言及は避けますが、一般的に公開されたサービスについて脆弱性あるいは被害の発生が報告された場合に、責任者が取りがちな誤った対応の典型が

報告者を恫喝して、問題をなかったことにしようとする

というもの。 その報告者が従業員や下請けといった「内部」の人間であれば「調査のためにサービスを停止させたことで発生する損害に対して責任を取れるのか」と詰め寄り、サービスの利用者やSNSといった「外部」の人間であれば「法的措置を検討する」などの文言で威圧することで、都合の悪い内容の報告、ひいてはそれが指す事実までをも揉み消そうとする態度です。

これは故事として伝わる「悪い報告を持ってきた伝令を殺す」指揮官そのものの愚かな振る舞いですが、彼らは何故このような態度を取ってしまうのでしょうか。 それは、情報セキュリティの責任者に限らず、政治家官僚, 経営者, 管理職といった地位にある人々の「得意分野」が、法律や社会的な力関係といった「決め事」を用いて他人を動かす手腕であることと関係しているように思われます。 「決め事」によって他社を動かす存在、すなわち権力者にとって、「決め事」に従う相手には容易に "勝つ" ことができる一方、これに従わないアウトローへの対処は大きな困難を伴います。 情報サービスに攻撃を仕掛けるクラッカを追跡・特定することは、警察による捜査を以てしても容易ではありません。 まして、警察沙汰にすることなく、企業が自力で犯人を特定し損害賠償を請求することはほぼ不可能といって差し支えないでしょう。 となれば、そんな勝ち目のない相手に立ち向かうよりも、自らの得意分野である「決め事」を駆使して脆弱性の存在や被害を訴える人々を黙らせることの方が容易く思えるとしても無理はないのかもしれません。 たとえ、その手法による対応を行った結果サービスあるいは企業が存続できくなった事例が多数見られることが示すように、それが確定的に明らかな誤りであるとしても。

敢えて大雑把な分類をするならば、「決め事」の内側は文系の、外側は理系のフィールドだと言えるでしょう。 個人的には、世の中が平常に動いているときには文系の職能が理系のそれに対して優位であることには一定の理があると考えるところ。 しかし、このコロナ禍でも観察されるような、災害時においてもなお「自然」に立ち向かうための武器となる理系の知見を無視し、文系の理屈のみで対処しようとする傾向は、取り返しのつかない失敗につながる愚行だということも確信しています。

自分自身のため、そして社会全体のためにも、現実の状況に応じて適切に行動を切り替えられる知者でありたいものです。

成田
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