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敬意の払い方

最近、ある友人と、人付き合いにおける感謝の大切さということについて話をしました。 感謝の仕方というのは人によって違うわけですが、そのとき焦点となったのは、その方法が場面や関係において適切なものであるかということ。 例えば、ある女性が恋人にネクタイをプレゼントする際に、彼女自身が選んだものを贈るのと、彼にお金を渡して本人に好みのものを選ばせるのとでは、どのような違いがあるか、というような問題です。

後日、このときのことを思い返していたところ、ここ7~8年ほど私が感じている問題がふと頭をよぎりました。 諸事情により、私は大学院在籍中からビジネスの分野と関わってきましたが、その頃から現在に至るまで、「現在の社会は技術者を軽視している」という感覚・認識を持ち続けています。 幸いにして、これまでのところ、私は技術提供に対して相応以上の金銭的な対価を受け取ることできる環境におり、その点において不満を持ったことはありません。 しかし同時に、自分や身近な技術者に対して、社会が向ける「何だかよくわからないことに取り組んでる気味の悪い連中」という視線を背中に感じてきたこともまた事実です。

充分な対価 (賃金) を受け取っているはずなのに、そのことを素直に手放しで喜べないのは何故か。 そんなことを突き詰めて考えったところ、最初に述べた「恋人へのプレゼント」の話と同じ構造の問題なのではないか、と思い当たりました。 どちらのケースにおいても、その対価あるいは感謝に「敬意」が伴っているかどうかが重要なポイントとなるのではないでしょうか。

理解されないことには慣れているけど

私は、私の世代としては相当に早くプログラミングを始めた方です。 最初に触ったのがPC-98上で動くN88-BASICである話などをすると、一回り二回り年上の人にびっくりされるほど。

私がプログラミングを始めたのは10歳くらいのこと。 当時は、何か分からないことに遭遇したら、それに関する情報を集めるだけでも一苦労でした。 なにせ、インターネット接続環境がありませんでしたし、Google もまだ存在してはいなかったのですから。 身近にプログラミングに詳しい人もいなかったため、人に訊くということも能わず。 そのため、一つの問題への取り組みが数ヶ月、時には一年以上に及ぶことも珍しくありませんでした。 情報源となるのはもっぱら書籍・雑誌ですが、その量や種類も、現在のように充実してはいなかった時代。 (その頃、「コンピュータ」というのはまだまだマイナな趣味だったのです。) 故に、「学習」は常に試行錯誤となり、全然見当違いの方向へ考えを進めては引き返すといったことを繰り返していました。

そんなわけで、私が夢中になって取り組んでいたプログラミングというものについて、周囲にその内容や面白さというものを具体的に理解してくれる人は殆どいませんでした。 そうした少年時代を過ごしてきたせいもあり、私は「他人から理解されないこと」に関して慣れてしまっている部分があります。

しかしながら、趣味ではなく仕事としてその知識・技術を提供する立場に身をおくと、やはりある程度はこれを他人に理解してもらわなければならず、そのための努力が欠かせなくなってきます。 そのためには、まず自分がしていること・考えていることを相手に分かるように表現してみせた上で、「カクカクシカジカの理由で、多少コストはかかりますが、この部分はこのようにするべきなのです。」と云った説明をしなければなりません。

そんなとき一番堪えるのは、こちらのそうした働き掛けに対する「そんな難しいこと俺 (私) には分からん・興味ない」といった反応だったりします。 相手が物事を正しく把握し、適切な判断をくだすために必要な (と少なくともこちらは考えている) 情報を、分かりやすく伝えようと努力しているのに、それを理解することを拒否されたのでは、もう為す術がありません。 そんなに難しいことを言っているわけじゃないのだから、ちょっとくらい耳を傾けてくれてもいいのに、と悲しい気持ちになってしまいます。

対価や称賛でなく

あー。

反対に、私が技術者として非常に嬉しいと感じた事例を挙げてみましょう。 前の会社に在籍していたとき、私は他の (プログラミングなどには殆ど関わらない) チームが使うための、簡単なスクリプトを作ったことがありました。 毎月二回 (1日, 16日)、チーム全員にある種のリマインダ・メールを送信するためのプログラムです。 その後、運用の方針が変更され、リマインダの送信は月に三回 (1日, 11日, 21日) となりました。 しかし、この修正作業の依頼が私に来ることはなく、プログラムの動作はそのチームのメンバであるA君 (プログラミング実務経験なし) の手によって変更されました。 私がこのことに気付いたのは、後にまた別の修正が入ったときのことです。

自分が担当しているシステムの動作を事前の相談も報告もなく変更されるのは、ある意味でちょっと困ったことではありますが、それ以上に、A君が私のプログラムの修正に取り組み、それに成功したことに感銘を受けました。 というのは、そのプログラムを読み解き、これに手を加えるということは、私の思考をトレースする行為に他ならないからです。 つまり、A君は部分的にではあっても、私が何を考え、どのような意図をもってそれを書いたのか、それを理解してくれたということ。 プログラマに対する敬意の払い方としてはこれ以上のものはありません。 逆に、プログラムの中身についてまったく理解しないまま、「優秀」だとか「凄腕」といった賛辞を贈られても、あまり、というか全然嬉しくなかったりします。 (プログラマというのは、かくも面倒臭い人種なのですが、そういうものと思って諦めてください。)

では、A君の行為には感じられ、給与・賃金として支払われる対価や称賛には感じられない「敬意」とはいったい何なのでしょうか。 いろいろな解釈が可能ではありますが、個人的には、受け手の側が「自分自身の内面を変化させる覚悟」を持っているか否か、がキーになってくるのではないかと考えています。 お金を稼ぐのは大変ですが、お金を払うのは簡単です。 そして大抵の場合、「お金を払う」ことによって払う側のものの見方・感じ方が変わることはまずありません。 高価なものほど大事にするという心理は働くかもしれませんが、それはおそらく「払う」行為ではなく、「稼ぐ」行為の困難さに起因するものでしょう。 称賛についても同じで、対象について深く知らずとも、表面的な観察から賛辞を並べるのはそれほど難しいことではないので、それをする人間の内面に、対象からの影響をもたらす度合いが大きいとは考えにくいと言えます。

その一方で、A君のように他人の書いたプログラムに手を入れるというのは、相手の思考を理解し、同じものを感じる (または感じようとする) 行為に他なりません。 そして、それを為そうとする姿勢こそが、「敬意」と呼ぶに相応しいものではないだろうか、と私は考えているわけです。 最初の「恋人へのプレゼント」の例にしても、相手が何を好むか (もちろん、それだけではなく「似合うか」というセンスの部分もあるでしょうが) という思考 (嗜好?) をトレースする点において、ここでいう「敬意」が込められていると見ることができます。

相手を見ること

うん。

この「敬意」の欠如、実は技術者に対してだけではなく、日常のあらゆる場面で見ることができます。 親子の間で、夫婦の間で、友達の間で。 もちろん、ビジネスの場も例外ではありません。 商品やサービス、あるいは労働に対して相応の対価を払うのは当然のことですが、それだけでは人間の関係は上手くいかないだろう、と私は考えています。

相手が何を考え・感じているかを、相手の立場に身をおいて考える・想像することの大切さ。 そして、それを為すためには、相手がしていることについて勉強したり、あるいは実際に体験してみることが欠かせません。 そのための手間とエネルギーを費やし、相手から影響を受け、自分の感覚・認識を変化させる覚悟。 それこそが「敬意」と呼ばれるものの正体なのではないでしょうか。

人間関係がこじれているとき、そこには在るべき敬意の存在が欠けている場合が殆ど。 お互いが (片方だけが、ということもたまにありますが)、自分のことしか考えていない。 「俺は金を払ってるんだから (働いてるんだから)、お前はこっちの思惑通りに動くのが当然。」 そんな認識で人と付き合っていては摩擦が絶えないのは必定でしょう。 モンスタークレーマー, モンスターペアレントなどの問題も、そんなところに根っこがあるのかも知れません。

まずは、自分の目の前にいる相手をしっかりと見ること。 そこが、人と付き合うことの出発点であるべきなのだろう。 そんなことをぼんやりと考えている今日この頃です。

成田 (LESSON 4 だッ!『敬意を払え』ッ!)
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