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「デザイン」の問題

先日のエントリでは、Live Messenger 2011 のユーザインターフェイスについて思うところを述べました。 しかしながら私は、このアプリケーションに限らず、ソフトウェア、あるいはもっと広く「デザイン」と呼ばれるもの全般が同様の問題を抱えている、と考えています。 これはつまり、私たちの社会全体が「デザイン」というものを軽視あるいは曲解し、これにまともに取り組むことを避けているのではないか、という疑念です。

日本では「デザイン (design)」という言葉は多くの場合、それに対応する日本語である「設計」とは違った意味合いで用いられています。 ある機能・性能を実現するために、「何を」「どのように」作るのかを考えるという本来の目的が見失われ、斬新・奇抜あるいは印象的な外観を与えることに主眼が置かれてしまっているケースがあまりにも多くはないでしょうか。

考えなしの行動?

日本人の多くは「デザイン」という言葉を誤解して認識しているようだ、と常々感じる。 たとえば、家にペンキを塗ると、近所の人が「どうして色を変えたのですか?」と尋ねてくる。 特に理由はないので、「気分転換です」と答えると、「ああ、デザインですか」と言われたりする。 この場合、「機能的な理由でなく、好き嫌いの問題だ」という意味で「デザイン」が使われているのだ。 「単なるデザイン」などというフレーズも頻繁に耳にするところである。 「物理的な根拠はないが、模様や格好だけを奇抜にしてみました」といった様子を表しているらしい。

『考えなしの行動?』 訳者 (森 博嗣) まえがき

非常にまずいことに、こうした誤解をしている人は、デザインを専門の職能とする「デザイナ」と呼ばれる人々の中にも少なくありません。 そのようなデザイナは、対象が果たすべき役割や、期待される性能について理解しようとせず、自分の感覚において「美しく」「スタイリッシュ」に見えるように、その形を変えてしまう傾向があります。

目的のない「デザイン」

そうした誤解に基づいた「デザイン」の例が、先にあげた Windows Live Messenger 2011 であり、また以下のブログ記事で言及されているような「デザイン」です。

こちらのデザインは「横断歩道」の新しいデザインだそうで、「思わず人が渡りたくなる横断歩道」をテーマに、新たにデザインを生み出したそうです。 だけど、横断歩道って、思わず人が渡りたくなって渡るものでしょうか? 思わず人が渡りたくなって渡ってしまえば、行きたい方向と違う方に誘導されるわけで、横断歩道を渡る人から考えると迷惑な話です。 それに、通常横断歩道を渡る場合、思わず渡りたくならなくても、渡らなければならないと思えば渡るよね。

しかも、このような色を使えば夜目立たなくなります。 何の為に現在白いペイントになっているのか?という事が完全に無視されています。 また、道路全面をペイントする事で、雨の日など滑りやすくなり、事故に繋がります。 「近くに横断歩道あり」という◇のマークや、道路に書かれた速度表示の数字が随分前に小さく変更されましたが何故小さくなったか?という理由までも綺麗にリセットされ無視されてます。

左右の端の線が描かれなくなったのも、水捌けをよくすることでスリップを防止するためだったはず。 このような、それまでの経緯・事情を考慮して作られてきたモノゴトの在り方を無視し、本来の目的を外した無意味な「デザイン」が世の中に氾濫しています。 そこには、「それは何のために作られたのか?」「なぜ現在そのカタチになっているのか?」といった考察が欠けてはいないでしょうか。

対象についての基本的な理解を欠いたまま為されるデザインなど、所詮お遊び。 作る側の自己満足でしかありません。 (参照: 柵の倒し方)

ドッグフードの試食

悪いデザインに共通して言えるのは、それがデザイナの手を離れ、ユーザによって使われている状態、言い換えれば「日常」を想定できていないということ。 あまりにも酷い製品に当たってしまったときなどは、それをデザインした人間を呼び出して、「あなたはこれを自分で使ってみました?」と問い詰めたくなります。

この問題に対しては、マイクロソフトがその昔、非常に有効であると思える取り組みを行っていました。 (現在のマイクロソフトが、明らかにこの姿勢を失っていることはとても残念ですが……。)

私がマイクロソフトで学んだこと

マイクロソフトではどの製品についても、初出荷のかなり前から「ドッグフードの試食」と称して社員が製品のテスト版を日常的に使用しています。 ウィンドウズ95のマーケティング担当者たちは製品が市場に出回る数ヵ月も前から、この新しいOSで日常業務をこなしてきました。 ワープロソフトか「ワード」から「エンカルタ」CD-ROM百科事典まで、あらゆるチームが同じことをしています。

ドッグフードの試食は、いつも快適というわけにはいきません。 マイクロソフトが新しい電子メールシステムを何万人もの社員向けに導入したとき、メールの遅配、コンピュータの故障、行方不明メールが続発し、全社規模で生産性に重大な打撃がありました。 たとえばコンピュータの電子メール画面が四十五秒間フリーズしてから正常に戻るという、おかしな事態が発生したりしていました。 ある社員はこんなジョークを飛ばしました。 「これは腱鞘炎を予防するための新機能かもしれないな。 嫌でもコーヒーブレークってことになるからね。 でも午前中に六杯もコーヒーを飲んだりすると、ちょっと飲みすぎって感じがしないでもないぞ。」

「ドッグフードの試食 (自社製品の試用)」は、ユーザーのために描いたシナリオを実際に演じてみることでもあります。

『私がマイクロソフトで学んだこと』 / ジュリー・ビック (訳: 三浦 明美)

使う側の視点に立って考えるというのは、デザインの鉄則。 また、その際には、現場での稼動と同様、長期に渡り継続的に利用される状況を想定することが重要です。

優れたデザインを行おうとするならば、まずは自分自身で、日常的に、反復して、対象を使い続けてみること。 一度の試用では気にならなかったような些細な問題も、何度も反復するうちに、作業効率の低下, 疲労, ストレスとして顕在化してくるでしょう。 (参照: ビデオゲームのUI) そうすることで初めて、自分のデザインの良し悪しを検証すること可能になります。

そうした手間を惜しんで、テキトウに人を集めて2~3時間程度の作業をさせ、アンケートを取ってその結果を集計するといったような「ユーザビリティ・テスト」によって問題点の洗い出しをしようとする現場も多いとか。 しかし、そんなものを実施したところで、たいした改善は見込めないでしょう。 せいぜい、表面的な事案に対する感想を集めて終わるのが関の山。 そこで致命的な欠点が指摘されなかったことを以って、自分の仕事に満足してしまうようなデザイナは、怠慢と謗られても仕方ありません。

成田 (デザイナはすべからく、よき生活者たるべし。)
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