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プラセボ効果との付き合い方

みなさんは、「プラセボ (プラシーボ) 効果」と呼ばれるものをご存知でしょうか。 最近ではネットなどで発信される健康・医療情報や、フィクション内での薀蓄として言及されることも多いため、聞いたことがあるという人も多いかもしれません。

しかしながら、その内容をきちんと理解している人はごく僅か。 殆どの人は「暗示や思い込みによって病気が治ること」だと認識しているのではないでしょうか。 ある種の人たちによって、精神の力で病気や障害を克服する、いわゆる「念ずれば通ず」の例として取り上げられることもしばしば。 また、科学・医学では説明のつかない (とされる) 超常的あるいは神秘的な現象に説明を与えるためのロジックとして用いられることも多いようです。

ガダラの豚 (III)

「こんなことは大生部先生の方がお詳しいでしょうけれど。 たとえば学者の間でよく話題になるのに "プラシーボ" ってものがあるわ」
「プラシーボ。 偽薬だね」
「そう。 通常のお薬でなかなか症状の退かない患者さんに、小麦粉を渡すの。 その際、"これは非常に高価で貴重な薬だが、特別に処方します" といった情報を与えておくの。 それでみるみるうちに症状がおさまってしまうことが実験例としてあるわけ」
「メリケン粉でかね」

「そうね。 西洋医学者の中にはムキになって反論する人もいるけれど、私は認めるわ。 病気と言うのはね、人間のひとつの "表現" でもあるのよ。 肉体が何かを訴えかけてきていて、無意識のうちに治ることを拒否している場合もある。 そういうときにプラシーボ的なもの、それは偽薬じゃなくて呪文だっていいわけだけれど、そっちのほうが効く場合もあると思うの」
大生部が言った。
「それは封じ込められていた人間の自然治癒能力を引き出すってこったな」
「そう。 ただの鍵にすぎないのよ。 パワーの詰まった部屋の扉を開けてあげるの」
「私も異論はないね。 キリストも空海も、マホメットも、聖人というのは万能の合鍵を持っていて、人々に奇跡を起こしてきたんだ。 欧州には昔から "ロイヤル・ハンド" というものがある。 これはいわば国王による手かざしだな。 病人には劇的に効くもんだそうだ」

こうした通俗的な見方に反して、現代の医学・医療においては、プラセボ効果は強く注目されると同時に、詳しく研究されてもいます。 ただし、上記で述べたような「人間の可能性 (自然治癒力) を引き出すもの」「新たな治療を拓くもの」としてではなく、治療効果の正しい評価を妨げる厄介な相手として、ですが。

プラセボが「効く」理由

小麦粉片栗粉ショ糖といった、人体への目立った作用がないはずの物質のみを成分とする薬、すなわち偽薬 (プラセボ) はどうして「効く」のか。 より正確に表現するならば、何故「効くように見える」のでしょうか。 その作用機序 (メカニズム) については様々なものが候補として挙げられています。

最もよく知られているのは、冒頭でも述べたような、「暗示や思い込みといった精神の働きが肉体に影響を及ぼす」というものでしょう。 これはもちろん、荒唐無稽な話ではありません。 心理的なストレスによって引き起こされる症状は、胃潰瘍, 不眠症, 円形脱毛症, 勃起不全, 拒食症など様々。 その逆の作用の仕方として、治療・投薬を受けたという事実の認識やそれによってもたらされる安心感によりストレスが緩和されることで免疫系の働きや恒常性の維持に対する阻害が抑制され、病気や怪我からの回復が促進されるということも、広く認められている事実です。

しかし、考えられる要因はそれだけではありません。 治療の効果を判定するのは、殆どの場合、患者本人あるいは治療・診察を行った医師自身です。 そのため、彼らが治療によってもたらされるであろう結果に対して予測あるいは期待を持っている場合、その判断には不可避的にバイアスが掛かることに。 このようなバイアスは治療の「本当の効き目」がどの程度のものであるかを見極めることを困難にします。

背信の科学者たち

被験者が予測するとどうなるか、ハーバード大学の心理学者ロバート・ローゼンソールの一連の研究で画期的に立証された。 この実験で、彼は心理学を専攻する学生たちに二つのグループのネズミを研究用として与えた。 一方は、迷路を走り抜けるための特別な訓練を受けた "迷路に明るい" グループであり、他方は、"迷路に暗い" グループで、生まれつきのろまなネズミであると告げられた。 その結果彼らは迷路に明るいネズミが迷路に暗いネズミよりもはるかにうまく走り抜けたのを確認したのだ。 しかし実際には、迷路に明るいグループと暗いグループには何の違いもなく、すべてが標準の実験用ネズミだった。 違いは学生たちの各グループへの予期だけだった。 それにも関わらず、学生たちは彼らの予期から生まれた違いをデータとして報告したのである。

たぶん、学生たちの中には、得られるはずの結果に一致するように意識的にデータを作り変えた者もいたであろう。 しかし、彼らの殆どは無意識に操作を行っていたのだ。 それがどのようにして行われたかについては非常に微妙であるが、学生たちはうまく走り抜けると予期したネズミに対しては行動しやすいように扱い、迷路を走り抜ける時間を計る際には、迷路に明るいほうには無意識のうちにストップウォッチのボタンを一瞬早く押し、迷路に暗いほうには遅れて押したのだろう。 事実がどうであれ、実験者の予期が気づかぬうちに実験結果を曲げていたのである。

『背信の科学者たち』/ William Broad, Nicholas, Wade (牧野賢治 訳)

ここで留意すべきは、プラセボ効果の原因が推測される要因のいずれであっても、その中のひとつあるいは複数を特定したり、それらの寄与の内訳を測る方法は (現在のところ) 存在しないということ。 そのため、医学・医療においては、「偽薬の心理的効果」や「患者のバイアス」「医師のバイアス」といった個別の要因ではなく、その総体として表れる「プラセボ効果」を「表れた効き目」から差し引くことによって、治療の「真の効き目」の測定・評価がなされているのです。

ときに「幼児や動物は医療に対する期待や予測を持たないのでプラセボ効果は表れない」と主張されることがありますが、これは明確な誤りといってよいでしょう。 幼児も動物も、自身の症状の変化について第三者が認識できる申告をすることはないからです。 彼らに対する治療に効果があったかどうかを判断するのはその親や飼い主、そして治療に当たった医師なので、そこに発生しうるバイアスが取り除かれない限りは、その治療への評価からプラセボ効果を差し引いて考えるはできません。

較べてみなけりゃ分からない

ところで、ある薬や治療法に効果があるかないか、あるとすれば、それはどの程度のものなのかということは、どうすれば知ることができるのでしょうか。 「自分で実際に試してみればいい」と言う人もいますが、問題はそれほど単純ではありません。 日常的に発生する病気や怪我の殆どは、放置しておいても自然に治ってしまうもの。 また、投薬や施療以外の要素、例えば食事や運動などの生活環境の変化や、仕事を休んでゆっくりと過ごしたことなどが、その回復の過程に影響している可能性もあるでしょう。 従って、薬を飲んだ後に病気が治ったからといって、それだけでは「薬が効いた」ことの証明にはならないわけです。

ではどうすれば良いのかと考えたとき、最初に思いつくのは「対照」の設定です。 治療を施した (薬を飲んだ) 場合と、治療を施さなかった (薬を飲まなかった) 場合とで、治り具合がどう変わるかを比較してみれば、より正確な評価を下すことができるはず。 けれども、サンプルが一人だけでは、薬を飲んだ場合と飲まなかった場合の両方を試すことはできませんし、体質や生活習慣といった個人的な要因 (個体差) の影響を排除することもできません。 そこで、対照実験を行う場合は、複数の患者 (サンプル) を集めて、治療群 (治療を施すグループ) と無治療群 (治療を施さないグループ) に分け、それぞれについて経過を観察することになります。 (このとき、各群への患者の割り付けにあたって適切な「ランダム化」を行う必要がありますが、それに関しては今回のテーマから外れるので省略。)

その結果、例えば次のようなデータが得られたならば、治療の効果はありそうなので、サンプル数を増やすなどして、もう少し詳しく調べてみる価値があるかも知れません。

治療群 無治療群
治った 7人 4人
治らなかった 2人 4人
どちらともいえない 1人 2人

また、次のような結果が得られたならば、治療の効果は疑わしく、あったとしてもごく僅かなものであることが予想されます。 特別な所見などがない限りは、別の治療法についての調査に切り替えるのが良いでしょう。

治療群 無治療群
治った 5人 4人
治らなかった 2人 4人
どちらともいえない 3人 2人

実験・調査にかかる研究者や医師, 患者の労力と時間は無尽蔵ではないので、見込みのない方法に早い段階で見切りを付けるのも大切なことなのです。

バイアスに抗う

さて、このようにして対照試験を行いその結果について統計的な処理を行えば、客観的な評価が可能となりそうですが、プラセボ効果の影響を考慮に入れると少々厄介なことに。 と言うのも、単純な対照試験には、前節で述べた医師あるいは患者によるバイアスを排除する仕組みが備わっていないからです。

では、バイアスを排除するにはどうしたらよいのか。 端的に言うならば、バイアスが働く余地をなくしてやればよいわけで、研究者たちは、そのためにブラインド・テスト (盲目試験) と呼ばれる方法を取り入れました。 これは、サンプルが治療・処置を施されたものかどうかを、判定を行う人物が事前に知ることができないようにして試験を行う、という方法です。

代替医療のトリック

科学的根拠にもとづくお茶

二十世紀のイギリスで、臨床試験の利用に先駆的な役割を果たしたサー・ロン・フィッシャーが、臨床試験の簡便さとその威力を見せつける例としてよく持ち出したのが、次のような思い出話だった。 ケンブリッジ大学にいた当時、彼は理想的なお茶の淹れ方はいかにあるべきかという論争に巻き込まれた。 ひとりの女性が、ミルクをあらかじめカップに入れておき、そこにお茶を注ぐべきであって、お茶にミルクを注げば味が落ちてしまうと言い張ったが、同じテーブルにいた科学者たちは、そんなことで味に違いは生じないと言った。 そこでフィッシャーはすぐにひとつの試験を提案した──お茶にミルクを注いだときと、ミルクにお茶を注いだときとで、味をくらべてみようではないかと。

さっそく、お茶にミルクを注いだものと、ミルクにお茶を注いだものが数カップずつ用意されて、その女性にどっちがどっちか当ててもらうことになった。 ミルクティーは完全に秘密裏に用意され、見た目もまったく同じだった。 ところがその女性は、お茶にミルクを注いだものと、ミルクにお茶を注いだものとを、正しく判別したのだ。 こうして、味はたしかに違うということ──この女性が正しく、科学者たちは間違っていたことが示された。 実際、この二つの作り方でミルクティーの味が変わるのには、立派な科学的根拠がある。 お茶にミルクを注ぐと味が落ちるのだが、それはミルクの温度が急激に上がりすぎて、ミルクに含まれるタンパク質が変質してしまうからだ (変質したタンパク質は酸味を帯びる)。

『代替医療のトリック』/ Simon Singh, Edzard Ernst (青木薫 訳)

ここでは、「お茶の味が変わるのはどうしてか」というメカニズムの説明は後回しにされているということに注目してください。 この考え方に基づけば、ある現象について、そのメカニズムがどれほど尤もらしく説明されていても、それが事実であると確認されない限り、即ち、ブラインド・テストのようなバイアスが取り除かれた検証を通過しない限りは、真実とは看做されません。 可能性を論じるだけであれば、どんな仮説でも打ち立てることができますが、その正しさが適正な手順で検証されないのであれば、それはいつまで経ってもただの仮説に過ぎないのです。

そしてこの手法により、幾つもの「治療法」が、古くから信じられてきたにも関わらず、実際には効き目のないことを暴かれ、医学・医療から取り除かれてきました。 (「医学の祖」とされるヒポクラテスの説に基づく、当時は正統・主流の治療法と看做されてきた瀉血もそのひとつ。)

コブは狭心症の患者を二つのグループに分け、一方のグループには通常の内胸結紮を行い、他方には偽の手術を行った──つまり、皮膚を切開して、動脈を露出させたのち、何もせずに元に戻したのだ。 ここで重要なのは、患者は自分が本物の手術を受けたのか、偽の手術を受けたのかをまったく知らず、手術ではどちらのグループの患者にも同じ傷ができたことだ。 手術を受けたのち、どちらのグループでも、患者の四分の三は、痛みが大幅に緩和し、以前より激しい運動にも耐えられるようになったと報告した。 信じがたいことだが、本物の手術も偽の手術も、同程度の成功を収めたのである。 これはつまり、手術そのものには効果がなく、患者に及ぼす効き目はすべて、強力なプラセボ効果によるものだったということだ。 実際、この手術のプラセボ効果はきわめて大きかったために、どちらのグループに属する患者も、その後薬の使用量が減った。

この例からするとプラセボ効果は有益そうだが、プラセボ効果が悪影響を及ぼす可能性も忘れてはいけない。 たとえば、プラセボ反応だけの効果で具合が良くなったかに感じている患者がいるとしよう。 根本的な問題は何も変わっておらず、治療を続ける必要があるにもかかわらず、一時的に症状が改善した患者は、治療を受けようとはしなくなる可能性が高まる。 内胸結紮の場合であれば、冠動脈が狭くなっているせいで、酸素の供給量が不足しているという状況は変わっていないのに、患者は偽の安心感を得てしまうだろう。

『代替医療のトリック』/ Simon Singh, Edzard Ernst (青木薫 訳)

しかし調査団はまだ納得しなかった。 助手のダヴナーが試験管を分析する際、試験管ごとに、ホメオパシーの溶液で処理されたものか、そうでないかがわかるようになっていたため、彼女の分析には、故意の、あるいは無意識のバイアスがかかっていることが懸念されたのだ。

そこで『ネイチャー』調査団は、試験管の中身については何もわからないようにして、ダヴナーに分析をもういっぺんやり直してもらった。 マドックスとランディとステュアートは、窓を新聞紙で覆った別室に入ると、試験管のラベルをはがして秘密の暗号で置き換え、内容物がホメオパシーの溶液で処理されたものか、ただの水で処理されたものかを、あとで識別できるようにした。

やがてダヴナーは分析を終えた。 秘密の暗号が解かれ、『ネイチャー』調査団は、どの試験管がホメオパシーで処理されたかを明らかにした。 今回の分析結果によると、ホメオパシーで処理された好塩基性白血球は、ただの水で処理された対照群のものとまったく同じように反応した。

のちに明らかになったところでは、バンヴニスト自身は一度も実験を行っておらず、すべてをダヴナーに任せていた。 さらに、彼女は一度も盲検化せずに分析を行っていたことも判明した。 つまり彼女はうっかりと、いつも同じバイアスを結果に持ち込んでいた可能性がきわめて高いのだ。 しかも彼女自身ははじめからホメオパシーの威力を強く信じており、その効果を証明したいという強い願望を持っていた。


ダヴナーはボーダーライン上のケースをたくさん見たことだろう。 細胞はアレルギー反応を起こしているのだろうか、起こしていないのだろうか? そんなボーダーライン上の細胞がホメオパシーの処理を受けているとわかっていれば、彼女は無意識のうちに、アレルギー反応を起こしていると判定したくなったかも知れない。 その細胞がただの水で処理されているとわかっていれば、やはり無意識のうちに、逆の判定を下したくなったのではないだろうか。 しかし『ネイチャー』調査団は、試験管にラベルをつけずに実験をやり直してもらうことで、ダヴナーが確実に「目隠し」され、判断にバイアスが入り込まないようにした。 すると、ホメオパシーの溶液と水では、ほぼ同じ結果が得られた。 公正な検証により、ホメオパシーの溶液は、好塩基性白血球に影響を及ぼさないことが示されたのだ。

『代替医療のトリック』/ Simon Singh, Edzard Ernst (青木薫 訳)

かくして、プラセボ効果の主要な要因のひとつであるバイアスを排除するための仕組みを取り入れることで有効な治療法を判別するための道具 (疫学的手法) を手に入れた現代の医学・医療は、迷信や思い込みに捉われていたそれ以前の時代のものとは一線を画する、公正かつ実効性の高い根拠に基づいた医療 (EBM: Evidence-Based Medicine) となったわけです。

プラセボでもいいじゃないか?

プラセボ効果しかないことが判明した治療法を、それでもなお推進あるいは支持しようとする人の中からは「プラセボ "効果" があるのだから有効な治療だと認めるべきだ」という旨の主張がよく出てきます。 曰く、バイアスによって生じる効果を除いても残る、自然治癒力を引き出す効果を利用する方法を考えるべきだ、と。 なるほど、一理ある意見のような気がしないでもありません。 しかし、それは本当に正しいのでしょうか。 結論から言えば、それは無理のある理屈です。

第一の理由は、有効成分を含む (つまり本物の) 薬にもプラセボ効果は付いてくる、ということ。

医師が効果の証明された薬を処方すれば、患者には生化学的、生理学的な効果があるだろう。 そしてその効き目は、プラセボ効果によってつねに強められるということを思い出そう。 薬の標準的な効果のほかに、そこ薬が効くと患者が期待することによって、標準的なレベルを上まわる効果があるはずなのだ。 別の言い方をすれば、効果の証明された薬には、プラセボ効果というおまけがついてくる。 それなのになぜ、プラセボ効果だけしかない薬を使うのだろう? それは患者を騙しているだけではないのだろうか?

『代替医療のトリック』/ Simon Singh, Edzard Ernst (青木薫 訳)

同時に、これらの効果はそれ以外の効果の影響がない無治療群において直接観測できるというだけで、無治療群にのみ存在する効果ということではなく、プラセボ群と治療群にも影響している効果であるということに注意する必要がある。 つまり棒グラフで書くとこうなる。

さて、グラフから明らかなように、真のプラセボ効果もプラセボ群にだけ存在するわけではない。 治療群にも存在する。

引用したグラフによる説明からも分かるように、本物の薬は「プラセボ効果」に上乗せして「真の治療効果」が付いてきます。 であるならば、わざわざプラセボを選ぶ必要性はどこにもないでしょう。

臨床研究においてプラセボより大きな効果がないと判明したということは、すなわち実質的に「そのものに効果はない」のを意味する。 ちょっとそれっぽく言うと、「○○ (←任意の検証対象) に特異的な効果はない」。 だから、「効果はない」あるいは「効かない」と言えば、説明として妥当。少なくとも不適当な言い方ではない。

ある薬や治療法について「プラセボ効果あるのだから」と主張することは、「プラセボ効果しかない」と言っているのと同じであり、それは端的に「効かない」と表現されるべきもの。 例えば、胃酸過多の症状はとりあえず何かを食べることで緩和することができますが、だからといって、ただのパンの耳を「胃腸薬」として処方あるいは販売することは妥当でしょうか。 そう考えてみれば、「プラセボ効果しかない」ものを「効く」と表現することの欺瞞に気が付くはずです。

第二の理由は、プラセボ効果は個人的な要因による発現のばらつきが大きく不安定で、たとえそれが十分に発揮されたとしても、その限界が非常に低いところにある、ということ。 プラセボ効果でマラリアを予防することはできません。 エイズの進行・発症を抑えることも不可能でしょう。 パンデミックの阻止に些かの役に立つこともないと考えられます。 痛みなどの主観的な症状の緩和にはとりわけ大きな効果を発揮すると言われますが、それでもプラセボ効果だけを頼りに麻酔なしの外科手術や末期がんの疼痛に耐えることができるとは到底思えません。

第三の理由は、現代の情報の非対称性の解消へ向かう流れ。 プラセボ効果は患者の予測・期待によるものですが、それは偽薬であることを知らされないこと、言い換えれば「嘘」によって成り立っているわけです。 その一方で、現在の医療はインフォームド・コンセントセカンド・オピニオンといった手続きを取り入れるなど、患者の自己決定権を重視・尊重する方向へ向かっているため、医師には患者に対する「正しい情報」の提供が義務付けられており、「嘘」の説明あるいは演出をすることは困難になりつつあります。 そしてまた、誰もがインターネットを使って世界中の人と情報交換をすることができる今日では、プラセボの真実を秘匿しておくことは不可能でしょう。 公開された場におけるコミュニケーションでは、特定の相手 (あるいは集団) に向かってのみ虚偽の情報を提供するといったことはできません。 「これは建前で本当は......」といったもの言いはできないため、プラセボを有効な治療だと主張するならば、全面的かつ公にこれを認める必要があります。 もしも、プラセボが真の治療として社会的に認められるならば、私たちは、本当の薬を使えば治せるはずの病気が治せないこと、そのために命を落とすことをも許容しなければなりません。 もちろん、プラセボ効果に基づいた「偽の医療」の研究や実施に対して決して少なくない額の公的な資金 (つまり税金) が投入されることも認めざるを得ないでしょう。

以上のような理由から、プラセボ効果はどう考えても医療にとっての「希望」とも「可能性」とも成り得ないもの。 私たちは「プラセボ効果はプラセボ効果に過ぎないこと」を十分認識した上で、どうしても混入を避けることのできない異物・不純物のようなものとしてこれを警戒しつつ付き合っていくしかないだろう、と私は考えています。

この記事を書いた理由

実は、私が当初書こうと思っていたのは「エンジニア、特にプログラマには意外にも科学リテラシーが不足あるいは欠如している人が多く、医療・生物系のニセ科学トンデモ理論を受け入れてしまいやすい傾向がある」という話でした。 それについて語るにはどうしてもバイアスの危険性や、統計・疫学的な考え方に触れる必要がありますが、それらはどう考えても一般的な常識・教養といえるような話題ではありません。

そこで、私のお気に入りの書籍の紹介と絡めて、言葉としての認知度はそこそこ高い、しかし正確には理解されにくい「プラセボ効果」を解説するエントリを書いてみることにしたわけです。 いずれ、最初の構想であった「エンジニアがトンデモに騙される」という話を書くときは、このエントリの内容を足掛かりにしていく予定。 いつになるかは分かりませんが、気を長くしてお待ちください。

追記 [2016/02/03]

書きました。

成田 (しかしそれでも、「ガダラの豚」は傑作ですよ。)
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