flint>flint blog>2016年> 2月> 3日>エンジニアと疑似科学 (前編)

エンジニアと疑似科学 (前編)

やや昔のことになりますが、私を含め数人のソフトウェア技術者 (プログラマ, システムエンジニア) で「上司や他の部署からの無茶な追加作業要求から如何にして自分のスケジュールを守るか」という話をしていたときのこと。 ひとりの参加者から、次のような質問が飛び出しました。

皆さん、血液型は何型ですか?

一体何を言い出すのかと面食らいつつも黙って彼の話を聞いてみるに、曰く

  • O型の人は、頼まれ事を断るのが苦手である。
  • 特に、相手がB型の場合は押し切られてしまいやすい。

要するに、血液型性格分類をベースとした「考察」の一形態です。

血液型性格分類は「コテコテの」と形容したくなるほど典型的な疑似科学ですが、日本では世間的に広く浸透しており、少なくない割合の人によって信じられている (とまではいかずとも、幾許かの「事実」を含むものと見なされている) 説であることはご存知の通り。 身近な人の口からこれを聞いたところで、今更驚くには当たらないのかもしれません。 しかしながら私は、それがエンジニア、即ち、物事の有り様を客観的に捉え、これを科学的な知見と手法によって制御し役立てることを職能とする人間の言葉として発されたことに強い衝撃を、もっと言えば、失望と危惧を覚えました。

疑似科学やオカルトの類から最も遠い場所に立つべきエンジニアが、意外にもそれらを受け入れてしまうのは何故なのか。 このエントリでは、具体的な疑似科学の例を挙げながら、その背景と問題点について論じてみたいと思います。

そもそも理系ではない可能性

一昔前は、コンピュータ技術者といえば理工学系の大学を卒業した人間が就く仕事でしたが、技術の発展と普及により、現在では文系学部出身のプログラマやシステムエンジニアも珍しくなくなりました。 それどころか、「社内でのプレゼンテーションや顧客とのコミュニケーションといった能力に長けた文系の人間の方が有利な場面も多い」などといった意見も頻繁に耳にするところ。 確かに一理ある見方ではありますが、その一方で、やはり技術職である以上、代数学, 解析学, 幾何学, 情報理論といった各種数学や、電磁気学や, エレクトロニクスなどの自然科学の基礎的なものの見方・考え方を習得しておかなければ、比較的早い段階で成長に限界の出てくることも確かです。

ある友人から、ネットワーク経由で転送するデータ量を減らすための「工夫」として、JPEGで保存した写真を1枚ずつZIP圧縮した上でFTP転送するコードを書いたプログラマの話を聞いたことがあります。 同僚たちから「それは無駄な処理だよ」という指摘を受けるも、エントロピーの概念を理解していない彼はどうしても納得がいかず、数百枚の画像データを圧縮するテストコードを作成。 それを実行して得られたのは、当然ながらデータのサイズが確かに増加しているという事実でしたが、自らの正しさの「証明」に躍起になった彼はこの結果を受け入れず、データサイズの増分がごく僅か (比率にして1%に満たない程度) であるということを根拠として、「ファイルシステムの特性によるものである」とか「試験用の写真がたまたま圧縮効率の悪いものだった」といった仮説を次々と持ち出してはこれを検証するという作業に没頭。 当然ながらいずれの試みも失敗に終わり、当該のコードはめでたくもリリース前に削除されるに至ったそうですが、本人は最後まで「エントロピーとか訳の判らん因縁付けて仕事の邪魔をされた」と愚痴をこぼしていたとかいなかったとか。 そんな彼のプログラマとしての腕前はと尋ねてみましたが、友人曰く「推して知るべし」。

ここまで極端な例にお目にかかるのは稀なことかも知れませんが、「エンジニア (技術者)」という肩書きで働いている人々の中に、理系の素養をまったく身に付けていない者が高い比率で混じっているというのが、現在のIT業界の実態です。

まず驚いたのは、自然科学への興味の薄さ。 高校などで理系コースを選択するくらいなのだから多少なりとも科学が好きな人たちかと思えば実際は逆で、物理は苦手・嫌いという人が大半を占めています。 大学のカリキュラムでも、卒業に必要な最低限の科目だけを履修し、試験前に一夜漬けをして、単位をとったらすぐ忘れるという有様。 数学についてもほぼ同じような状況で、数式にΣが出てくると、そこで思考を停止してしまうという人も少なからず見受けられます。

とは言え、文系出身の技術者であっても、職務を通じて知識と経験を積み重ねてゆくことで、ある程度は科学的なものの見方・考え方を体得してゆくものです。 そのため、あまりにも基本的な事柄、例えばエネルギー保存則エントロピー増大則光速不変の原理を否定するような真性にトンデモなエンジニアと遭遇することは滅多にありません。 (皆無ではない、というのが恐ろしいところですが。)

柔軟すぎる思考

今からちょうど10年前、西暦2006年はモーツァルトの生誕250周年ということで、彼に因んだある疑似科学が世間の注目を集めていました。

モーツァルト効果とはモーツァルトに代表されるクラシック音楽を聴くと頭が良くなる、と主張される効果。 1990年代に行われた心理学研究に端を発するが、徐々に拡大解釈されるようになり、現在では音楽産業や教育分野で消費者の関心を惹くために喧伝されることが多い。

当時私が住んでいた福島県でも、とある蔵元が販売する「モーツァルトを"聴かせ" ながら醸造した日本酒」がニュースや新聞に取り上げられていました。 この他にも「モーツァルトを聴かせて熟成させたワイン」「モーツァルトを聴かせて育てた米」など同様のコンセプトを打ち出した商品が各地で販売されているようです。

デンプンアルコールへと変化させる発酵のプロセスを補助する目的で超音波を用いる技術・研究があるそうですが、「モーツァルト」の事例はそれとは異なり、発酵の担い手である微生物 (酵母) に音楽を (タンクにスピーカを繋ぐなどして) "聴かせる" ことで、その働きを良くする、という説明が付与されていることが多いもの。 微生物が音波に晒されることで活動の仕方を変化させるというのは充分にあり得ることですが、人間の可聴域をターゲットとして作られる音楽がこれに適しているとするに足る根拠は見当たらず、剰えモーツァルトの曲に特異的な効果があるとする主張に蓋然性を見出すことには相当な無理があります。 蔵の中に音楽を流すことによって、従業員が気分良く働けるようになり、結果として製品としての酒なりワインなりの品質が向上する、ということはあるかも知れません。 しかし、そのことを以て「モーツァルト効果で酒が美味くなる」と主張するのは、科学的にはもちろん、一般的な社会通念に照らしても不当なことでしょう。

......といったようなことを知人の機械系エンジニアに話したことがあるのですが、それに対して返ってきたのは、次のような言葉でした。

でも、むずがる赤ん坊に母親の心音を聴かせると、それがたとえ録音されたものであっても落ち着くらしいじゃないか。

その意味するところを察するまでに数秒掛かりましたが、要するに

赤ん坊は「母親の心音」という特別なパターンの音を聴くことで心身の状態のバランスを回復させるという。
⇓ だから...
麹や酵母が「モーツァルトの曲」という特別なパターンの音を聴くことで、活性化することがあるかも知れない。 (あってもおかしくはない。)

ということが言いたかったようです。

いきなり飛躍すんなよ!!

赤ん坊が母親の心音で落ち着くというのは、音を聴くための器官 (耳) とそれを信号としてを処理するための発達した神経系 () の持ち合わせが前提条件としてあってのこと。 その上で、哺乳類の進化の過程において、庇護者である母親の存在を心音によって判断するメカニズムが獲得されたと推測することには、取り立てて不自然な点や致命的な欠陥はないように思われます。 一方で、菌類である麹や酵母が、これと同様の応答を行うための器官を備えているか、乃至そうした器官を発達させる必要性があったか、ということを考えてみれば、上記の推論の荒唐無稽さが理解できるでしょう。

ある領域Xで生じる現象 p を観察し、それと相同の現象 p' が別の領域Yでも同じように起きる (あるいは起こせる) かもしれないと考えることは、科学・技術研究の出発点となるもの。 しかし、それが事実であると主張するのであれば、その現象 p' が実際に起きることを示すことが求められます。 p' が起きる可能性のみを問題にするとしても、領域Xと領域Yの共通点だけではなく、その相違点にも着目し、p' の発生に必要な条件が成立し得るのか (成立し得るのであれば、今まで p' が観測されていないのは何故なのか) といった問題について論じるのでなければ、それは戯言に過ぎません。 そうした考察なしに、表面的な類似性から得た着想だけで推し進めた「研究」の行き着いた先のひとつが

細菌の中には有害な化学物質を分解・無害化する能力を持つものがある。
⇓ だから...
放射性物質を分解・無害化できる細菌もある。

という、近代化学の成立と共に棄却された錬金術の残滓とも言える理論 (生物学的元素転換) に基づいたインチキ商売であることは心に留めておきたいところです。

放射性同位体は、「通常の元素」と化学的に非常に良く似た性質を持ち、それ故に、生物は各種の同位元素を識別することができません。 (その性質を利用して、同位体マーキングなどが行われる。) また、その放射性崩壊は化学反応ではなく、それよりも遥かに高いエネルギーを必要とする領域で発生する現象であるため、生物がいかなる作用をしたところで、それを阻止・阻害あるいは促進することは論理的に不可能であり、そうした現象が厳密な観測において確認された例も皆無です。

既成の理論の枠組みに捉われない自由な発想は科学・技術の発展の原動力と成り得るものですが、他方で、妥当な検証を経ていない「思い付き」に「事実」のラベルを貼る行為は軽挙妄動の謗りを免れません。 『利己的な遺伝子』の著者として有名なリチャード・ドーキンスは、そうした軽信を次のような警句で戒めています。

By all means let's be open-minded, but not so open-minded that our brains drop out.
(心をオープンな状態に保つのは大変結構なことだが、その開き具合は脳ミソが転がり落ちない程度に留めておこう。)

自然・生命の神秘化

生き物の身体というものは、驚くほど複雑かつ精巧なメカニズム。 人類がこれまでに作り上げた如何なる機械 (ハードウェア) あるいはコンピュータ・プログラム (ソフトウェア) も、その動作の連携の緻密さ巧みさにおいて、木の葉の一枚どころか、それを構成する細胞の1個にすら遠く及びません。

アメリカ版大学生物の教科書 (第1巻 細胞生物学)

ゴルジ装置は小胞体からタンパク質を受け取って、それらを梱包し、送り出す。 小胞体とゴルジ装置のあいだには直接膜系の連続性のないことが多いのに、どのようにしてタンパク質はそのあいだを移動するのであろうか? タンパク質が単に小胞体を離れて細胞質を横切り、ゴルジ装置に入ることもあり得る。 しかし、その場合にはタンパク質が細胞質中で他の分子と相互作用する可能性も生じる。 他方、もし小胞体の一部が "出芽" してタンパク質を含む膜性小胞を形成する場合には、細胞質からの隔離状態は保たれる。 後者が実際に起こっているのである。

タンパク質は小胞に包まれて安全に小胞体からゴルジ装置へ移動することができる。 いったんゴルジ装置に到達すると、小胞はゴルジ装置の膜系と融合し、その内容物を放出する。 他の小胞が扁平嚢間を移動しタンパク質を輸送する。 タンパク質の中には小さなチャネルを通って扁平嚢のあいだを移動するものもある。 トランス領域から出芽する小胞は内容物をゴルジ装置から持ち去ることになる。

このような生物学の知識に触れると、例えそれが現在知られていることのほんの一端に過ぎないものであっても、機械系あるいはコンピュータ系のエンジニアは「このメカニズムにはとても敵わない」と打ちのめされると同時に、「これを自分の仕事に応用できないだろうか」と考えるもの。 そうした畏敬の念を抱かないエンジニアがいるとすれば、説明されたことを充分に理解できていないか、技術に対する興味・情熱を失っているか、あるいはその両方かのいずれかに違いありません。

その一方で、こうした「生命」あるいは「自然」の姿に感動するあまり、俗説や迷信に嵌り込んでしまうエンジニアを見掛けることもしばしば。 前節で紹介した微生物が「音楽を聴い」たり、元素転換を起こすといった飛躍した理論もその一例と言えますが、その背後には「これだけ複雑で大掛かりなシステムなのだから、どんなことが起きても不思議ではない (⇒ どんなことでも起こせる)」という生命への過剰な期待があるように思われます。 確かに、生命や気象のような複雑系の挙動は、人間が作り出した機械やコンピュータ・プログラムのそれのように、(実用上問題のない程度に) 完全な予測をすることは不可能ですが、だからと言って「何でもアリ」が通るわけではありません。 構成要素の性質とそれら相互作用の仕方を調べていくことで、適用範囲の限界や軌道の確率的な分布について、完全には程遠くとも、何らかの情報を導き出すことはできます。 もし仮に、その挙動にいかなる如何なる再現性も持たず、一切の予測を許さないようなシステムがあったとしたら、我々はそれについて何も語ることはできなくなるでしょう。

また、ガイア理論やその亜種・変種、例えば真顔で以下のようことを語るエンジニアにも幾度か出会ってきました。

エイズエボラなどの病原性ウイルスは環境破壊を続ける人類を滅ぼすために地球が生み出した「抗体」なのかも知れない。

エンジニアが本来身に付けているはずの懐疑精神も、「生命」「自然」の威厳の前ではその鋭さを鈍らせてしまうもののようです。 しかしながら、より注意深く観察・考察を行えば、生物のメカニズムが抱える様々な問題点が見えてきます。 むしろ、「生物であること」が設計・製造を行う上で大きな制約となっている部分も大きいことに気が付くでしょう。

ロボットはなぜ生き物に似てしまうのか

生き物のからだは、血管を通って届けられる原材料やエネルギーを使って、現地 (からだの各部) でDNAの設計図に基づいて作られる。 古くなった部品の処理も現地主義だ。 各部位で分解されて不要となった部品や廃棄物は、血管を通って回収される。 現地生産方式を採用しているからこそ、からだのあちこちで細胞の自己複製機能を活用した、自立分散型のからだの生産が可能となるのだ。

一方で、現地生産方式にはいくつかの制約もある。

まず、現地に材料を届け、廃棄物を回収するためのパイプ (生き物でいう血管) が必要不可欠だ。 ライフラインの安定確保が極めて重要で、配給/回収が滞ると現地の組織は死んでしまう。 「はじめに」で、生き物にはクルクル回る回転機構がほぼ皆無であると指摘したが、神様がエンドレスに回る回転関節を採用できなかった理由がここにある。 回転機構が配管の途中にあったのでは、パイプがねじれたり、液漏れのトラブルを起こしやすいからだ。

また、現地生産方式では、材料を溶かしたり、大きな力を加えて曲げたり削ったりすることもできない。 従って、金属やプラスチックといった材料は使えなくなる。 常温環境下で、強力な力を加えずとも加工の可能な材料だけしか使用は許されないのである。

人類がその歴史の殆どすべての期間において神の深遠なる思慮に基づく「設計」だと信じてきた生物の造形も、詳細な検討を加えてみれば、いかなる長期的な見通しも持たない場当たり的な変更の繰り返しと辻褄合わせの産物であることが明らかに。 まるで仕様変更と機能追加を繰り返した結果、全体像を把握している人が社内にいなくなり、根本的な修正が不可能となっているレガシーコードのようですが、コンピュータプログラムの運用期間がせいぜい10年のオーダであるのに対し、生物の場合は10億年のオーダなので、その混沌ぶりも桁違いです。

進化の存在証明

さてここで、私があなたに、眼の光電セルが後ろ向きになっている、つまり、見つめている場面から遠ざかる方向を向いていると言ったらどうだろう。 光電セルを脳につないでいる配線は網膜の表面全体を走っているので、光線は光電セルにたどり着く前に、大量の配線から成るカーペットを通り抜けなければならないのである。 これは理に適っていない──むしろひどくなってさえいるではないか。 光電セルが後ろ向きになっていることの結果としてはさらに、データを運ぶ配線がなんとかして網膜を通り抜けて脳に戻らなければならない、ということもある。 脊椎動物の眼における実例で言えば、すべての配線が網膜にある特別な穴に収束し、そこを潜り抜けるという仕組みになっている。 神経で満たされたこの穴は、ものを見ることができないがゆえに盲点と呼ばれる。 しかし「点」というのはあまりにもひかえめにすぎる表現だ。 というのは、その「穴」は非常に大きくて、盲領域(パッチ)と呼ぶほうがふさわしいからだ。 この盲点もまた、脳に「自動フォトショップ」ソフトがあるために、実際にはそれほどの不便を与えることはないが。 とはいえ、こうなるとやっぱり返品だ。 なぜなら、この装置の設計は単に効率が悪いだけでなく、まったく馬鹿げているからである。

『進化の存在証明』/ 著: リチャード・ドーキンス, 訳: 垂水 雄二

経験至上主義

「この目で見たものしか信じない」というのはよく耳にする台詞ですが、エンジニアの中にも、これこそが迷信・俗信から距離を取る態度、即ち「エンジニアらしい姿勢」だと考えている人も多いようです。 そしてこのポリシーはともすれば容易に「この目で見たものは信じる」へと変容します。 「この目で見たものしか信じない (見ていない⇒信じない)」と「この目で見たものは信じる (見た⇒信じる)」は対偶の関係にはないので、このシフトは論理的に繋がっていないのですが、それについてはひとまずおきましょう。

エンジニアというのは、物事の当否を確認するにあたって、とにかく「実際にやって」みたがる傾向があります。 これは先にも述べたように、機械やプログラムの挙動というものは比較的高い再現性を示すため。 工業製品の場合、同一のラベルで識別されるオブジェクトは概ね等しい性質・性能を示し、それらの間には殆ど差異が見られません。 そうした前提があるからこそ、誰が操作するかに関わりなく、同じ手順で操作を行えば同じ結果が得られるという予測・期待に妥当性が認められるわけです。 そのような分野では、2ちゃんねるなどでよく使われる

のようなステートメントがそれなりの説得力つのも当然と言えば当然。

ところが、医学・医療のように生物を対象とする分野では、そのような単純な予測・期待は通用しなくなります。 一人一人の形態・性質のばらつき (個体差) は、工業製品とは比較にならないほど大きく、対象を成人だけに限ってみても、長さ (身長) にしておよそ1.5倍、重量 (体重) にして2倍以上の開きがあります。 さらには (実際に現場で行われているように) それぞれの体質、そのときの体調、生活習慣・病歴といった要素までを考慮に含めたならば、そのバリエーションは事実上無限と呼んで差し支えのないものになるでしょう。 これほどまでに異なる対象に対しては、同一の操作 (施術・投薬) を施したのだから同じ結果が導かれるはずという予測はまったく成り立ちません。

では、人体は「その挙動にいかなる如何なる再現性も持たず、一切の予測を許さないようなシステム」であると考えるべきなのでしょうか。 だとすれば、医学の理論や医療の技術は、まったく何の役にも立たないものだということになりますが、勿論そんなことはありません。 患者一人一人の症状の推移を完全に把握・予測することは不可能ですが、疫学 (統計学) の手法を用いることで、有効であると根拠を持っていえる治療を選択・提供することがきでます。 (これが、今日の標準医療の基本的な指針となっている根拠に基づく医療です。)

ところで、ある薬や治療法に効果があるかないか、あるとすれば、それはどの程度のものなのかということは、どうすれば知ることができるのでしょうか。 「自分で実際に試してみればいい」と言う人もいますが、問題はそれほど単純ではありません。 日常的に発生する病気や怪我の殆どは、放置しておいても自然に治ってしまうもの。 また、投薬や施療以外の要素、例えば食事や運動などの生活環境の変化や、仕事を休んでゆっくりと過ごしたことなどが、その回復の過程に影響している可能性もあるでしょう。 従って、薬を飲んだ後に病気が治ったからといって、それだけでは「薬が効いた」ことの証明にはならないわけです。

こうした統計的なデータに基づくことなく、自身の体験を一般化することは、治療の効果に対する誤った評価に繋がります。 まったく効果のないインチキ治療を「効く」と錯覚したり、あるいは逆に有効な治療法から遠ざかってしまったことが、重大な健康被害を招いた例は枚挙に暇がありません。

新生児や乳児は血液凝固を補助するビタミンKを十分生成できないことがあるため、厚生労働省は出生直後と生後1週間、同1か月の計3回、ビタミンKを経口投与するよう指針で促している。 特に母乳で育てる場合は発症の危険が高いため投与は必須としている。

しかし、母親によると、助産師は最初の2回、ビタミンKを投与せずに錠剤を与え、母親にこれを伝えていなかった。 3回目の時に「ビタミンKの代わりに (錠剤を) 飲ませる」と説明したという。

助産師が所属する団体は「自らの力で治癒に導く自然療法」をうたい、錠剤について「植物や鉱物などを希釈した液体を小さな砂糖の玉にしみこませたもの。 適合すれば自然治癒力が揺り動かされ、体が良い方向へと向かう」と説明している。

「ビタミンK与えず乳児死亡」母親が助産師提訴 : YOMIURI ONLINE (読売新聞) [IA:2010-07-11]

ところで、この入り組んだメカニズムの実態を解き明かすツールである統計学もまた、誤った使われ方をすることがしばしばあるもの。 冒頭で挙げた血液型性格分類について、これまでに少なくとも3人のソフトウェア技術者から、以下の旨の言葉を聞かされています。

血液型 (性格分類) ってのは統計だからね。
あくまで「傾向」だから性格を決め付けることはできないけど、根拠がないわけじゃないんだよ。

では、その「統計」とは具体的にはどのようなものかと尋ねてみたものの、示された調査 (アンケート) などは、そもそも血液型の分布 (日本ではおおよそ、A型が40%, B型が20%, O型が30%, AB型が10%とされる) はおろか、各種のバイアスの存在すら考慮されていない杜撰なものでした。 たかだか100人のサンプルから「部屋が片付いていないと落ち着かない」などといった質問に対する「はい」の回答率のわずか数%の差を以て特定の血液型にその傾向が見られると結論しており、検定の概念すらない有様。 もしこれが「統計」だと言うのなら、6面サイコロを12回振った結果が が4回, が1回, が2回, が0回, が3回, が2回 となったことを以て

このサイコロは (一の目) が最も出やすい。

と結論付けることすら立派な「統計」ということになってしまうでしょう。 (無論、そんな馬鹿げた話はありません。) この他にも占星術風水などを統計だとする論も割と出てきます。 そこへもってきて、

でも、ビッグデータってそういうことでしょ。

などと宣われた日には、脱力してしまい、もはや否定する気力すら湧いてきませんでした。

統計が如何に優れたツールであっても、予め決められた結論を導くために都合良く曲解して使うならば、それは単なる欺瞞の手管。 「嘘、大嘘、そして統計」とはよく言ったものです。

成田 (愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。)
このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

☆今週の血液型占い☆A型の君はB型の血液を輸血すると死んじゃうぞ☆ ( 投稿者: nsdt <lo46as67ETep9> )

統計の誤用は本人に悪意がなく、根拠だと錯覚して信じているものだから始末が悪い。

血液型占いを信じる人が多い結果、その血液型の性格といわれるものに自分を寄せていく現象(同調圧力)によって、実際そういう傾向が出てくるという仮説を考えた。

☆ラッキー酸素は特になし☆ラッキーデストロイヤーはジェイソン☆ ( 投稿者: なりた ) [link]

それは血液型性格判断が "当たっている" ように思える (人がいる) メカニズムとして「バーナム効果」と並ぶ有力候補である、「予言の自己成就」ってやつですね。

熱烈な信奉者の中には、次のようなアクロバティックな「論証」をやる人もいたりして:

(1) 現在の日本社会では、血液型性格診断 (/占い) を知らない人はまずいない。
(2) ならば、自分の性格をその内容に引き付けて考えてしまう傾向があるはずだ。
(3) 従って、「血液型と性格に相関なし」とする調査結果は、この傾向を検出できていないから間違っている。

いや、私も最初は何を言われてるのかさっぱり分からなかったんですけどね。相手の言い分が上記の推論に基いていることに気付いたときは、思わず "Eureka!!" と小さく叫んでしまいましたよ。ちょっとしたアハ体験ですな。(違
投稿者
URI
メールアドレス
表題
本文