flint>flint blog>2019年> 1月>31日>技術の器

技術の器

会津に住んでいた頃、私の住むアパートで水道管が凍結し、すべての部屋で水が使えなくなってしまったことがありました。 それから半日ほど経ったところで、管理会社が手配した業者がやってきましたが、そこに現れたのはどう見ても60歳を優に超えていると思しき男性3人。 彼らは雪が吹きつける屋外であれこれと調査を行い、乗ってきた車から機材を担ぎ出し、かれこれ4時間ほどの作業で水道を復旧させて帰っていきました。

私はその様子を見ながら、「なかなかの力仕事なのに若者を連れてこないのか」「彼らの会社に若手はいないのだろうか」などということをぼんやりと考えていました。 たとえ会社に若い衆がいたとしても、こうして現場に出て経験を積むことがなければ、いつまでたっても彼ら年配者がこなしているような仕事をできるようになる道理もなし、と思いを巡らせたところで、ある不安に行き当ります。 「5年後とか10年後とかにまた水道管がトラブったとき、直しに来てくれる人はいるんだろうか?」

現在、IT業界に限らず、「ものづくり」の現場では、空前の技術者不足が起きています。 多分に主観が入りますが、私の見るところでは、モノを作るために必要な知識や技術をきちんと身につけているのは、50歳よりも上の人たちまで。 これよりも若い世代になると、少数のエキスパートが散在してはいるものの、層の厚さ・広さといった点では及ぶべくもない、と感じています。 そして、これまで社会の基盤を支えてきた彼らのような技術者はあと数年で退職し、一線から姿を消してしまうでしょう。 そうなったとき、私たちの世代は果たして、その技術を受け継ぎ・発展させてくことができるのでしょうか?

それから8年が経過した現在、とりあえず水道については問題なく使用できていますが、その一方で、私が身を置くIT業界ではこれに類する問題が起きつつあります。

それ、いつの話?

何時頃からなのかは定かではありませんが、これまで長らくの間、国の内外を問わず多くの人が

日本人は器用で勤勉な民族である

という評価・認識を持ってきました。 「メイド・イン・ジャパン (Made in Japan)」が高品質を保証するフレーズとして認識されたのも、その実態はさておき、「職人」「匠 (たくみ)」たちが腕に磨きをかけて行う「ものづくり」のイメージによるところは大きかったはず。

しかしながら、政府や業界団体がこれらのイメージを殊更に打ち出し始めた2000年頃あたりから「後継者難による技術の途絶」が社会問題化し始めました。 それもそのはず、かつて評価された「器用で勤勉な日本人」というのは、定年退職あるいは気力・体力の限界から一線を去りつつある (あるいはとうの昔に去った) 職人・工員のことであって、今日現役として働いている私たちが属する世代のことではないからです。

バブル崩壊に端を発し、元号か改まろうとしている今もなお続く平成不況の影響もあり、国内産業が設計・製造の工程を積極的に下請けに出す、アウトソーシングの動きが加速。 その結果、製品の開発元として誰にもその名を知られている大企業が、実際には自社製品の製造のノウハウを持っておらず、下請け企業が廃業・倒産してしまうと後継品の開発もリコールへの対応も自社では行うことができない、事実上の販売代理店でしかない、という状況があちこちで立ち現われるようになりました。

日本の航空会社の情報システム担当者から20年近く前に聞いた話で、以前書いたことがあるが再度紹介する。 彼が米国の航空会社の情報システム担当者に会い、情報交換した際、今後の方針として「ソフト開発や出来上がった情報システムを動かす運用といった仕事はシステム子会社やIT企業にアウトソーシングしていく。我々はシステムの企画に注力していきたい」と説明した。 それを聞いた米国の担当者は目をむいてこう言った。 「開発や運用を自分でやらず外部に頼んで何か問題が起きたらどうするつもりだ。企画なんか外に頼めばいい。コンサルティング会社に金を払えば、いくらでも企画を持ってきてくれる」。

このとき、業界が自らの技術力の低下に自覚的であったならば、それを挽回すべく何らかの手立てを講じたのかもしれません。 しかし、前述の「日本の高い技術力」という過去の評価が未だに通用するものと思い込み、経営者はおろか現場の技術者たちまでが「自分たちの技術力は高い」と錯覚したまま、これといった対策も取ることなく今日までを過ごしてきました。 ソフトウェア設計・開発の現場においても、その動向は例外ではありません。 プログラマという職種に限ってみても、実務歴5年以上で

  • Ruby が使えます」と言うものの、Ruby on Rails を使わなければユーザ認証 (ログイン) の仕組みすら作れない。
  • JavaScript が使えます」と言うものの、jQuery なしではフォーム送信前の簡単な入力チェックすらできない。
  • Google 検索して出てきたサンプルコードを、その動作原理を理解しないままコピペで使用する。

といった人材に出くわすことが多々あります。

あまりにも失礼なので確認したことはありませんが、「"プログラマ" ないし "システムエンジニア" という肩書で仕事をしている人間の半数以上は選択ソートを行うコードを自力で (フレームワークやライブラリに頼らずに) 書くことができないのではないか」と本気で思ってます。 これが再帰呼び出しを必要とするクイックソートともなれば、正答率が1割を切る方へ賭けることに躊躇いはありません。

私と同様、この著者は、プログラミングの仕事への応募者200人中199人はコードがまったく書けないということで苦労している。 繰り返すが、彼らはどんなコードも書けないのだ

基礎技術の不在

一般に、技術の発展というものは、それまで高度な知識・技能が必要とされていた作業を簡単に行うことができるように、言い換えれば「誰でもできるように」するもの。 その結果として、従来必要とされていた「旧い」技術を学ぶ必要性と機会は失われることになります。 平時において、それらの技術をただ利用している限りでは、それで何の問題もないでしょう。 しかし、技術基盤が故障したり、改良の必要性が生じた場合、「旧い」技術が失われている状態ではこれに対処することはできません。 私は個人的に、こうした現象を「技術発達の自発的途絶」と呼んでいます。

プログラミングの例でいうと、ライブラリやフレームワークに欠陥 (バグ) があることが判明したとしても、「ではその処理は本来どう行われるべきなのか」という問いに答えることができなければ、その部分を自作して問題を回避することは不可能。 また、自分がそれらのライブラリやフレームワークと競合する新製品の開発担当になったとしたら、「ライバル製品を使うことができる」というだけでは到底太刀打ちできないでしょう。

もちろん、既製の製品やサービスを利用するための知識が重要でないとは言いません。 仕事をするにも生活をするにも、9割方の場面で求められるのはその類の知識だからです。 しかし、そうした知識というのは、提供元がその製品・サービスを普及させるために至れり尽くせりの情報提供をしてくれるものであるため、殆どすべての人が持っているか、その気になればすぐにでも手に入れることのできるもの。 残りの1割の場面で求められる、専門技能としての価値は限りなくゼロに近いものです。

SFでよくある話に、現代人が古代へタイムスリップして、現代の知恵を使って大活躍する話がある。 もし我々が古代にタイムスリップしたとして、本当に古代人に感心されるような知恵を提供できるだろうか? 古代人にとっては何の役にも立たない知識ばかりが詰め込まれているのではなかろうか?

スマートフォンをいかに使いこなしたところで、技術を持っていることにはなりません。 そのデバイスだけを持って過去にタイムスリップしたとして、利用可能な通信網が無ければ殆どのサービスは利用することができず、上空をGPS衛星が飛んでいない時代では位置情報の取得すら不可能。 そもそも、現代のように安定した電力の供給を受けられる環境がなければ、数日も経たないうちにバッテリーが空になり「ただの板」と化すでしょう。 そうした状況はタイムスリップなどせずとも、大規模災害が発生すればそこかしこで生じる上、現代のように通信インフラに依存した社会では一企業の設備トラブルでも充分に起こりうるものであり、決して荒唐無稽な想定ではないのです。

もちろん、ひとりの人間がすべての技術を把握するなどということは到底不可能であることは言うまでもありません。 重要なのは、自分が理解できていないものの大きさを意識し、決して埋まることのないその空白の領域に挑み続ける覚悟があるかどうか、なのです。

金庫には入らない

実のところ、ここまでで述べてきた

先人の栄誉を自身への評価であると錯覚し、自分には技術があると (実際にはないのに) 思い込む

という現象が観察されるのは日本国内に限ったことではありません。 海外の事例で私が実際に見聞きできるのは世界規模で事業を展開する超巨大企業が殆どですが、例えば MicrosfotApple は圧倒的な高評価を得た製品を送り出す一方で、その後継となる製品として、とても同じ企業が作ったとは思えないほど大幅に品質を落としたものをリリースしてきました。 周辺事情を併せて考えるに、これらの多くは「開発・製造に携わる人間がそっくり入れ替わっている」ケースに該当する模様。 すなわち、銘柄としては同じ企業の製品ではあっても、後継製品は事実上別物と言えるほどに変容した組織によって創り出されている、というわけです。

商標や特許、著作権を保有していれば、あるいは設計図やソースコードを機密情報として所持していれば、「自社に技術がある」ものと考えている経営者は決して少なくありません。 しかし、そうした認識に反して、それらの技術が産み出されたときに携わった人員が抜けてしまったせいで「自社が特許を持つ技術なのに施工できない」とか「自社のソースコードがブラックボックス化してしまい、誰も手が付けられない」といった話はあちこちに転がっています。 また、特許技術を開発した人間はそれを回避して同じ機能を実現するアイデアの2つ3つは抱えているのが常であり、その人材を競合に引き抜かれてしまえば、会社が特許を保有していたところで、技術的なアドバンテージなど無いも同然となるでしょう。 明細書に書かれることなど、開発者が「考えたこと」「試したこと」のほんの一部でしかないのですから。

しかし、残念なことに、この「作るときの意識 (あるいは思考, 目線)」はドキュメントにも完成品にも残らず、常に抜け落ちてしまうもののようなのです。

技術を容れることのできる器はただ「人間」のみ。 そして「人間」はいずれ老い去るものである以上、組織が技術力を保持するということは「人を育て続ける」ことでしか為しえないのです。 特許やソースコードだけで構成された「技術資産」などというものの価値は、それを理解・実践できる人材を擁していなければ紙クズ同然。 このあたりの機微を人工知能 (AI) でなんとかしようという試みもあるようですが、現状では「失敗の約束された浅知恵」にしか見えません。

私自身、しっかりと「根の張った」適用の広い技術を身につけていきたいところ。 日々の雑務から得られる上澄みのような知識を貯めこんで満足し、ふと気づいたときに中身がスカスカの技術者になっている、というのは考えるだに恐ろしいですからね。

成田 (「人は城、人は石垣、人は堀」とはよく言ったもので。)
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