flint>flint blog>2012年> 3月> 5日>火と鉄と

火と鉄と

砥石も持ってます。

「料理」は、私の数少ない趣味の一つ。 仕事で遅くなることもあって、ずっと自炊というわけにはいきませんが、休日や外食に飽きたときなどに、台所に立っています。 あれこれと忙しくしている間はそちらに意識が集中するため、気分転換・ストレス解消にはもってこいの作業です。

ところで、「料理」というと、一般的には「女性らしい」「可愛らしい」あるいは「優美」というイメージがあるようで、これを私のようなムサい男が趣味にしていると知ると、失笑や揶揄を含んだ反応を返してくる人も少なくありません。 「男らしくない」「女々しい」と受け取られているらしいのです。 確かに、私が料理を教わったのは主に母からですが、実際に料理に取り組んでみると、これが他にはちょっと類をみないほど「男らしい」仕事であることが分かるでしょう。 刃物 (包丁) を振るって皮を剥ぎ、肉を切り、骨を絶つ。 ガスの炎を操り、高温の油の飛沫に耐えながら、食材を加工する。 少しばかり盛った表現をするなら「火と鉄の世界」。 世間一般に言われる「男らしい」趣味、例えばクルマの運転やギターの演奏などと比較してみても、遜色ない程度には勇気と技量の要る行為ではないかと思うのですが......。

さらにここから派生して、調理の主要な道具である包丁の研ぎとなれば、まさに「男の仕事」という感じがするのではないでしょうか。 刃物の研ぎ方は父から教わった (というか教え込まれた) のですが、そこでも様々な知識を経験として得ることができました。 例えば、「切れ味」というのは、刃の断面の楔型を鋭くすることよりも、むしろ刃に沿った微妙な凹凸による部分が大きいこと、鉄が意外に「柔らかい」ことなど、色々な発見があります。

アイロン瞑想

また、客先に常駐して仕事をしている私にとって、ワイシャツの皺伸ばしは日々欠かすことのできない作業。 背広は自分で洗うことが難しいのでクリーニングに出していますが、ワイシャツの洗濯と、アイロン掛けは自分で行っています。

このアイロン掛けもまた、「灼けた鉄」を繰って為されるもので、油断をすると衣類を焦がしてしまったり、自身が火傷を負ったりするなかなかに危険なもの。 私が使用しているのは母から譲り受けた相当に古いアイロン (松下電器製: キューティNI-111) で、温度調節不可、過熱防止機構なし、スチームなしというシロモノなので、最近のものと比べて取り扱いに注意を要します。

余談ですが、アイロンをかけているときって、無心の境地に入ってしまいますね。 個人的にこの状態を「アイロン瞑想 (ironing meditation)」と呼んでいたり。 プログラミングに集中するとやたらと空腹を感じることから思い付いた「プログラミング痩身」とあわせて、なんとか流行させようと思っているのですが、全然上手くいきません。

こまかいけど大事なこと

さて、どうしてこんな料理だの、包丁研ぎだの、アイロン掛けだのの話をしているかというと、別に「家事できます」アピールがしたいというわけではなく、そうした「生活を成り立たせている諸々の技能」について関心を持つことの大切さについて述べるため。

私は以前から、同世代あるいはより若いエンジニアに関して、その技術の浅さ・狭さについて憂慮しています。 彼らを観察していて感じるのは、自分たちの生活を取り巻く環境について殆ど関心をもっていないこと。 例えば、自分が着ている衣服がどのように製造され、また手入れされているのか。 あるいは、口にする食品がどのように生産され、どういった過程を経て自分のもとへ届いているのか。 そうしたことを全く知らないし、知りたいとも思わないし、知らないことを恥ずかしいとも感じない。

それで不自由・支障なく生活していけるのなら問題はないのですが、少なくとも、社会において生産に携わる、「ものづくり」を担う人間にとって、そうした自分たちが生きる世界の成り立ちに対する関心あるいは理解の欠如は、非常に大きな問題となります。

子供や学生であるうちは、人は一方的にサービスの受け手側でいることができます。 魔法を魔法として使いこなすことさえ出来れば、科学の知識や数学の理論を身につけなくても、生活をしていく上では何の不自由もありません。 しかし、学校を卒業して社会人となり、サービスを提供する側に立ったときから、自分たちが使っていたものよりもさらに高度な魔法を自らの手で生み出すことを要求されることになります。 このギャップの大きさは、想像を絶するものがあります。 そして、このギャップは今このときにおいても、確実にその幅を増しつつあるのです。

現在、IT業界に限らず、「ものづくり」の現場では、空前の技術者不足が起きています。 多分に主観が入りますが、私の見るところでは、モノを作るために必要な知識や技術をきちんと身につけているのは、50歳よりも上の人たちまで。 これよりも若い世代になると、少数のエキスパートが散在してはいるものの、層の厚さ・広さといった点では及ぶべくもない、と感じています。 そして、これまで社会の基盤を支えてきた彼らのような技術者はあと数年で退職し、一線から姿を消してしまうでしょう。 そうなったとき、私たちの世代は果たして、その技術を受け継ぎ・発展させてくことができるのでしょうか?

そのような姿勢が、実利を重視した、ドライで合理的な姿勢だと評価されることも少なくないようですが、私はそうは考えません。 なぜなら、「考える力」を養うには、多くのモノの見方・考え方に触れる経験が欠かせないからです。 見聞きしたものは、たとえ自分が目的とする事柄に直接の関係はなくとも、その人が何かを考えるための材料としてストックされていくもの。 そして、そうした材料が何かに使えることに「気付く」ことによって初めて、経験が知識として自分の一部になるわけです。 それを集める手間を惜しみ、最短距離で目的とする知見まで一足飛びに到達したとしても、そこからの自分の考えを発展させることは難しいでしょう。 なにせ、材料の手持ちがないのですから。

刃物や高温といった「危険なもの」を扱っていると、自然にそれらを安全に扱うための手法について考え、学ぶことになります。 包丁で使うときは、対象物を押さえる再に指を丸める (曲げる) ことを教わったり、あるいは過熱を防ぐための機械的な仕掛け (ヒューズなど) について耳にしたりする機会を得ることになるでしょう。

こうした経験は、コンピュータと直接の関係はなくとも、システムを設計したり、運用のためのマニュアルを作る際などに役立ちます。 勿論、そうした手法や概念について解説している書籍やサイトはたくさんありますが、それらを読むだけでは、「ものづくり」に必要とされるセンスを身に付けるには不十分。 例えば、「フェイルセーフ」という言葉を知っているだけでは、フェイルセーフなシステムの設計ができるようにはなりません。 具体的な事例に数多く触れ、それらに共通するモノゴトの見方・考え方をなんとなく (この「なんとなく」というのが重要) 感じ取る必要があります。

そういった「学び」、もっと言えば「成長」の過程において、その材料や足掛かりになる情報・経験を仕入れる間口の狭さは、致命的に不利な要因として働くであろうことは想像に難くありません。 「自分は伸び悩んでいるな」と感じている人は、専門から少し離れて、周囲のモノゴトに目を向けて見るのことで意外なブレイクスルーを得られる可能性があります。 そのきっかけとなる知識・技能・経験は、ネットや書籍ではなく、家族や友人, 同僚といった身近な人の手の中にあったりするものなんですね。

成田
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