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「やる気」は誰のもの?「やる気」は、良い仕事を為すために欠かせない (と考えられている) 要素です。 ところで、その「やる気」はどこからやってくるのでしょう? 言うまでもないことですが「やる気」というのは、個人の内的 (心理的) なコンディションに過ぎません。 従って、それに対する環境からの干渉があるとすれば、それは常に自分自身というフィルタを通しての間接的なものであるはずです。 しかしながら、「やる気」をコントロールすることは非常に難しいため、私たちはともすればその増減は自分の意思とは無関係な現象だと考えてしまいがちです。 例えば、他人から賞賛されたり、あるいは批判されたことによって、やる気が出た (あるいは失くなった) と「感じる」ことがあります。 ところが、よく考えてみれば、そうした外部からの干渉はあくまでもきっかけに過ぎず、実際にやる気を出したり失くしたりしたのは、他でもない自分自身。 やる気を自分で「出す」ことはできても、他人に「引き出してもらう」ことはできないのです。 「やる気」とは言ってみれば自分の、そして自分だけの財産。 これをきちんと管理・運用できるようになって初めて、一人前の社会人です。
Narita (0.8人前くらい?)
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working
Ipsa scientia potestas est.私の趣味のひとつに、素粒子物理があります。 「自分がいるこの世界はどのように成り立っているのか」というテーマには、程度の差こそあれ誰もが興味を持ち、その答 (もしあるならば) を知りたいと思うのではないでしょうか。 それを調べる方法のひとつは、対象をより細かい単位に分解していくことです。 そのようにして、人間は分子, 原子, 陽子/中性子, 電子 … といった具合に、物質をどんどん「切り刻んで」、より小さな粒子を発見してきました。 このあたりの領域になると、粒子の大きさは 10-10m (1億分の1センチメートル) よりも小さくなり、肉眼はもとより、顕微鏡でも捕らえきれないほどに小さくなってしまいます。 そうした粒子の性質は「目で見て」「直感的」に理解できるようなものではなく、波のように拡散したり、何もないところから突然現れたりと、日常的な間隔からは考えられないような振る舞いを呈するようになります。 この奇妙な振る舞いを説明すべく物理学者は観測された現象を矛盾なく説明できるようなモデル (理論) を打ち建てようとしているわけです。 ところが、例え良さそうなモデルができたとしても、それを直接実験で確かめるのは容易なことではありません。 なにせ相手は目にも見えないほど小さい上に、ものによっては 10-8 (1億分の1) 秒程度で消滅してしまうので、「それが確かにここにあった」ことを証明することすら非常に困難。 そのため、モデルの正しさ (精度) を検証・向上させていくには、小さな状況証拠 (泡ができたとか、暗闇の中で水が光ったとか) を積み重ね、それらが互いに矛盾しないような解釈の筋道を見つけていくしかないわけです。 ここまでくると、すでに確立された理論の後追いをするだけでも相当にアタマを捻らなければなりませんが、だからこそ、それを理解することが「趣味」として成立するのだと言えるでしょう。 (パズルみたいなものですね。) この趣味の優れた点は、「(殆ど) お金が掛からない」ということですが、これは裏を返せば「お金を掛けてもどうにもならない」ということ。 どうしても理解できないときは、ひたすら本を読み返したり、別な本の内容とつき合わせたりするのですが、それでもダメなときはダメ。 そんなときは、自分の頭の悪さに落ち込んだりもするわけですが、それもまた醍醐味でしょうか。
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science
自己表現?以前勤めていた会社の求人ページの「3DCGアーティスト」と「Webデザイナー」の「求められる能力」欄には、
自己表現ができるアーティスト (デザイナー)
という、ちょっと引っ掛かるフレーズがありました。 (ちなみに、「システムエンジニア/プログラマ」と「ネットワークエンジニア/システム管理者」の項には見当たりません。) 何故このフレーズが気になるのかというと、一般に「自己表現」という行為は「仕事」と相反するものだからです。 子供とインターネット
小中携帯、原則禁止を…教育再生懇が提言素案 : ニュース : ネット&デジタル : YOMIURI ONLINE (読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/net/news/20081216nt07.htm 一般人 (コンピュータ・ネットワーク技術者でない人々) によるインターネット利用が活発になったのは、1990年代の中頃からのこと。 それから10数年が経った現在、「インターネット」の在り方は、それが出現した当時とは全く異なるものになっています。 ほぼ全ての人がインターネットに接続可能な端末を所有し、ウェブサイト上で買い物をし、電子メールをやりとりをしている現代。 最近では、小中学生もケータイを通じて日常的にインターネットにアクセスしています。 こうした世代の子供たちにとって、「インターネット」はもはや電気や水道・ガスと同じレベルの、「あって当たり前」の生活インフラであり、その中へ踏み込んでいくことに対する不安や躊躇といったものは殆どみられません。 その一方で、「インターネット」という場が、歴史的に見ても、現状を見ても、決して子供 (ある程度の情報リテラシーを身に付けていない人) が安全に活動できるものではない、ということもまた事実です。 現実 (オフライン) 社会の法則やルールが殆ど通用しない「インターネット」社会は、有効な法整備も殆どなされていない現状においては、「無法地帯」と言っても差し支えありません。 この、ある意味で夜の盛り場よりも危険な無法地帯に、子供たちがほぼ無制限に踏み込むことができる今の状況は「何かが狂っている」としか言いようがありません。 そして、こうした状況をこれ以上放置するならば、私たちの社会は「判断・責任能力のない子供が犯罪に巻き込まれる危険を容認している」と見なされても仕方がないでしょう。 とても複雑で一筋縄ではいかない問題ではありますが、これにケリを付けることは、私たち「大人」の義務であろうと考えています。 価値のサイクル社会人と呼ばれる者は皆、仕事を持ち、お金を稼ぐことで、自らの生活支えています。 では、その「お金」はどこからやってくるのでしょう? お金は会社の金庫から湧いて出くるわけではありませんし、その人の「苦労」や「頑張り」に対して与えられるものでもありません。 顧客に対し何らかの「価値」を提供することではじめて、その対価として支払われるのです。 そして、ここで得られたお金は、また別の価値と交換され、それを生み出したものの所へと移動していきます。 こうして、形態を異にするさまざまな種類の価値が、お金によって媒介されて人々の間を循環するわけです。 この価値交換のサイクルこそが、我々の社会システムを成り立たせている「経済」と呼ばれるものの本質に他なりません。 ところが、私のように「従業員」として会社に雇われている人間は、自分がこのサイクルを構成する一員であることを忘れてしまいがち。 自分が、社会に対してどのような価値を提供できるかということを考えることなく無為に働き、それに対する報酬を求めるようになってはいないでしょうか。 毎日会社へ来て、与えられる仕事をこなしていれば給料が貰える – そんな環境に慣れ過ぎぬよう、常に己の価値を意識し、これを高める努力を怠らぬようにしたいものです。
Narita (もう新人という立場ではない)
見る力現実に存在する「もの」は、莫大な量 (実質的に無限) の情報を含んでいます。 しかし、こうした情報をすべて記録・保存するのはとても現実的とは言えません。 そこで、ソフトウェア開発者は対象を抽象化・簡略化し、これをコンピュータ上で扱うことができるようにします。 このプロセスを「モデル化」と呼びます。 モデル化において重要なのは、どの情報が必要で、どの情報が不要かという見極め。 必要な情報が抜け落ちればシステムは用を為さず、不必要な情報が入り込めばプログラムの複雑さが増して保守が困難になります。 つまり、モデル化というのは、対象から必要な情報だけを抜き出す作業。 言い換えれば、モノゴトの「本質」を見抜くことに他なりません。 「本質とは何か」という問いに対する答は、「何を目的とするか」によって異なります。 従って、モデル化を正しく行うためには、まずその目的をきちんと理解・把握する必要があります。
ソフト開発に限らず、一般的な状況においても、この「本質を見抜く」能力は、正しい判断を下すための指針となります。 本質を見極められない、即ち、目的を見失っている状態では、何をやっても上手くいかないもの。 どう行動すべきか迷ったときは、じっと目を凝らしてみるのも良いかもしれません。
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不合理プログラマから見ると、世の中は「不合理」な制度に満ちています。 例えば、暦 (こよみ) に関する決まり事について言えば...
この他にも、「世紀は 0から始めれば楽だったのに。」とか、「分と秒は60進法なのに、その下は10進法で表記するのは何故か?」 など、合理性・一貫性を欠く制度への疑問・不満は尽きません。
Narita (本気で憤っているわけではありません。)
東山~布引高原Windows VistaWindows Vista の発売から五ヶ月が経過しました。 その性能については賛否両論あるようですが、私の個人的な意見としては、「ダメOS」でファイナルアンサー。 欠点をひとつひとつ挙げていくときりがないのですが、その中でも致命的なのが、インターフェイスの大幅な変更です。 エクスプローラのレイアウト改変に始まり、新しいボタンコントロールの導入、メニュー構造の変更等々、Vista はそれまでの Windows ユーザが習得してきたインターフェイスをばっさりと切り捨ててしまいました。 それでも、こうした新しい要素を取り入れることで、作業効率が上がる、あるいは、習得が容易になるといったメリットがあれば良いのですが、そのような効果は殆ど見られません。 「目新しさ」を出すことで、買い替えを促すといった狙いがあったようですが、ユーザの反応を見れば明らかなように、その「目新しさ」が仇になっています。 (Office 2007 が導入したリボンも同様の問題を抱えていますよね……。) インターフェイスの変更は、例えそれが改良であっても、ユーザには大きな負担となります。 そのため、そうしたデメリットを上回るメリットが見込めない限りは、インターフェイスの変更を見送る、あるいは、旧スタイルでの操作も可能にする、といった措置が妥当だと思われるのですが、そうした発想は微塵も見受けられません。 そんな「ダメOS」の失点を挽回するためか、Microsoft からは早くも次期バージョンである Windows 7 の情報が出されています。 しかし、発表の内容を見る限りでは、ユーザが望んでいるのとは掛け離れた方向へ進化している模様。 Windows XP が第一線を退くのはまだまだ先のことのようです。
Narita (ゲームソフト作ってんじゃないんだよ!!)
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Oct 2024
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